今月の授業づくりネットワークは非常に重い。
最近の時流の影響もあって、「自由」を標榜してその実践に取り組む学校は増えた。しかし、そのような学校であっても石川晋先生の次のような指摘は鋭く突き刺さるものがある。
横並び一斉の授業スタートは、伝統的な授業構造が最後まで手放さない頑固なシミのようなものだと感じています。そこに教師のインストラクションからスタートするというお約束が張り付いています。
(『授業づくりネットワーク』No.47 P.21より)
色々なものが変わりつつある今だからこそ、この言葉が非常に重い響きを持っているように感じる。
何を手放せないでいるのか
自分の授業を振り返ったときに、割と生徒に自由に「させている」つもりであった。だからこそ、生まれてきた成果もあれば、他の教室には再現できないような面白いことが起こったこともある。
そういうことの積み重ねがあるから、自分は「自分が教えること」に対して我執が無いタイプの教員だと思っていた節はある。
ただ、冒頭で紹介した石川先生の言葉のように「インストラクションからスタートするというお約束」を手放せないでいる自分は、まさに「頑固なシミ」の正体そのものであるように感じられる。
学校の教室という整いきった環境で、当たり前のようにチャイムと同時に話し出すことができる自分のいる場所は、当たり前のように一斉の授業のスタートを受け入れる身体がある場所なのだ。
ほとんどインストラクションなく始められるような度量は自分にはなかったのだ。
もっと身軽になれると感じる
なるほど、今号を読んでいくと自分が「抱え込んでしまっている」ことがあまりに多いということに思い知らされる。
伝統的なインストラクションから始める授業の構造を手放せないでいる結果、自分があまりにも自分の欲求で、色々なものを授業に抱え込んでしまっているようなことを思うのである。
具体的にどういうことかを説明することは難しい。一つ一つの課題や文言にそういう自分の姿勢があるように感じる。たとえば、膨大に文字で埋め尽くされた単元のてびきは親切なようでいて授業者である自分の欲望の塊でしかない。
授業はもっと軽やかにしなやかになれるのだ。
自分がこだわってしまっていて、手放せないでいる「余計な」こだわりを少しずつ手放していくことができれば。
ただ、こうやってやっと手放せるような気がしてきているのは、自分がヘトヘトになるくらい一度、色々なものを抱え込んできたからであると思う。
なるほど、3月今だからこそ、授業づくりネットワークのこの特集は読むべきなのだ。