ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

大人の学びは時間がかかる

学び続けなければいけない社会と言われて既にだいぶ久しい。もちろん、教員も例外でなく、色々なことを学び続けなければいけない。

生徒たち学べというのだから、自身も常に学び続ける必要がある。しかし、仕事や生活の忙しさの中で、新たな学びに時間を割くことはいつであっても難しい。

自身の学びをいかに効率的に進めるか、働き方改革と併せても考えても難しい問題なのだ。

働き方改革と授業づくり

冬休みの課題図書だった授業づくりネットワークも無事、読み終わる。

 

 

それぞれの論者がそれぞれの立場からの意見を述べている。労働問題としてルールの問題として考えた方が良いという立場の意見もあれば、教員としての矜恃を問うような意見もある。中には割と辛辣に権利ばかり主張していることを批判的に扱っているものもある(個人的にはその立場には共感しない。また、権利の前に義務を果たすことを忖度させるような書きぶりも含めて共感はない)。「良い授業をしたい」ということが教員の共通の最上位の合意になるということすら怪しいかもしれないという状況が現実にあることもおそらく色々な意味で教員の働き方が難しくなっているのかもしれない。

いずれにしても、余裕のない現場からは授業の工夫や教員の学びは生まれないだろうという方向性は見える。

余裕があれば自分は学び続けられるのだろうかということを問い直してみると、色々な難しさを感じる。

変化を実感できない学び

いつ実現できるか分からない働き方改革に期待するよりも、今できる学びをするというつもりでコツコツと勉強をしたいと思うが、そういう気持ちが続いていかないことも自覚している。

多忙の中に少しの無理をして捻出して学びを続けたとしても、なかなかその成果が目で見える形で実感することが難しい。だからこそ、継続して学び続けることのハードルが非常に高い。

まして授業に活かすということになれば、半可通ではどうにもならないし、かえって変なことになるので御法度である。まあ、ものによっては生徒に投げかけて一緒に考えるということが大切な場合もある(たとえば、生成AIに関することなど新しいテクノロジーについてなど)。

出口戦略が見えにくい、基礎鍛錬のような学びこそ、もちろん授業のためには重要になるのだが、そういう成果をイメージできない学びを続けるのはモチベーションが続かないものである。

それでも、やらなければいけないんだよな、と自分を奮い立たせて何かを毎日もがくのが教員の学びなのかもしれない。分かりやすいものほど賞味期限は短い。

リフレクションを大切に

だからこそ、日々、自分の積み重ねを記録にとって振り返ることが大人の学びには必要なのだろう。

自分のことを褒めてくれる先生はいないから、自分で自分のモチベーションを踏み固めていかなければ行けないのである。

本当は誰かと一緒にやるのが一番なのだろう。お互いに伴走しながら。そういう学びが出来るのであれば、それは本当に羨ましい環境である。

なかなか仲間に巡り会うことは難しい。もしかすると今なら生成AIがリフレクションの相手になってくれるかもしれないし、モチベーションを上げることを手伝ってくれるかもしれない。ただ、基本的には自分で自分が何ができるようになったのかを言えるようにならなければ、大人の学びは完結しないのだろうなと思う。

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