本日から仕事始め。授業の開始が近づいてきているので、頭の中に漫然と泳いでいる状態の授業の形を捕まえにいっている。
目の前にあることに向き合う
3学期にどんな授業をやろうかなぁと考えている時に、やはり目の前で起きている問題と向き合うしかないだろうと思っている。これだけ大きな天災があって、そのことで揺れ動いている社会について触れられなければ、それは高校の授業としては物足りないだろうと思う。
もちろん、その話題をそのまま生のまま手渡したら感情的な盛り上がりだけで、言葉の授業として何か考えが深まるようなことはない。自分のやらせたいことを何も工夫なく生徒に投げつけては独りよがりの自己満足にしかならない。
ちゃんと丁寧に子どもたちが見ているだろう世界をよく考えて、どうすれば芯に刺さるような言葉として届くのだろうか、そういうことをしつこく考えていくのである。
他者の中で生きていく
高校の現代文を学ぶ出口として、到達しなければいけないことは何だろうかと常々考えている。
そこから逆算して授業を考えていくのが、本来のカリキュラム・マネジメントだとか言われるものであるはずである。
なかなか何をゴールにするべきか考えることは難しい。
ただ、ぼんやりと最近思うこととしては、論理国語でも文学国語でもよいが、言葉を扱うこと、言葉について学ぶことで高校の出口でたどり着いていて欲しいこととして、他者の存在があることを実感することなのだろうなということである。
そして、そこから逆説的に自分とは何かを自分の言葉で掴むような姿勢を持てるようになることなのだろうと思う。
使える言葉の範囲が広がるほどに、自分よりも遠くまで見通せるようになる。
そういう実感を持てるようなるトレーニングをしっかりとしなければいけないのだろうと思う。
だからこそ、教室を見渡すだけで見えることにばかり授業では時間をかけられないなと思うのである。
「いまここ」にないことであっても、言葉があるからこそ届くところに言葉を向けていくということが授業なのではないだろうか。
授業づくりは難しい
教科書の文章は新学習指導要領になって、本当にいっそう工夫されるようになってきている。選ばれている文章についても定番教材以外は、それぞれの教科書会社の問題意識が見えるように思う。
だからこそ、あまり教科書の文章も軽く扱いたくはない、自分にはできない選書の巧さがあるからこそ、載っている文章をどういう形であれたくさん読んで欲しいと思っている。
高校の教科書に載っている文章って授業でどれくらい使われているのでしょうね。扱いやすいものや定番ばかりがつまみぐいされていないだろうか。
全ての教材を当たり前に読むような一年間でありたいなぁと、一年の終わりに向かうこの時期になって思うのである。
「基礎・基本」にたどり着けないなぁと思う自分がいる。