ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

不自由な教員生活の自由

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教員とは不自由な仕事である。

あらゆるものにがんじがらめにされて、日々、仕事に忙殺されるのである。

好き勝手に教えている訳ではない

よくマンガやドラマの世界の教員は、自分の好き勝手なことを教えているような描写がされている印象がある。

思いつきでちょっと良いことやってやろうみたいな授業のやり方なのだが、実際の教員には、それほど自由に授業を選べる権利も余裕もないのである。

憲法から始まり、教育基本法があり、学習指導要領があり、法的に拘束される部分が非常に大きい(逆に言えば、法に守られているので他人に教えるという責任を負うことが出来るとも言える)し、週に20コマ近く授業を担当するということは、授業を回すということにとてつもなくエネルギーが取られてしまい、好きなことばかりでなんとか出来るほど甘くもない。

まあ…好きなことをやりながら、カリキュラムの問題も授業数の問題も全てオールクリアできる超人がいるのも教育という現場ですが、それは例外中の例外ということで。

定められたことに真剣になること

教えるという仕事は、基本的には一人では出来ない。一つの教科を教えるとしても他の先生と協業である。自分で全てのクラスを教えられる訳でもないのだから、学校としての質の担保のためには、自分だけのマンパワー頼りの強引な授業の組み立てでは上手くいかないのである。

だからこそ、担当間や学校内でちゃんと話し合って決めたことについては、お互いに信頼し合ってきちんと履行することが大切なのだ。

事前の取り決めをつくる段階で、工夫の方法や可能な範囲の折り合いをつけもしないで、だまし討ちのように授業の本番で自分だけが出来ることをやりだすのは、大人の働き方だとは言えないだろう。

様々な縛りが入ってくるのが教育という仕事であるが、その枠を作ることには主体的に「学校をどうしたいか」ということに関わることで、発言するチャンスがあるものである。

もちろん、そういう場所で発言するためには、信頼が必要だ。だからこそ、定められたことに真剣になる意味がある。

同意できる範囲を探るということ

苫野一徳先生の本ではよく出てくるが、信念が対立しているように見えても、問い方を変えることで、同意する、折り合いをつけられる可能性がある場所が生まれうる。

授業をどうするのかということについては、信念対立の連続である。

しかし、それをお互いに罵倒し合って歩み寄りをしないでだまし討ちをし合うような学校では、生徒の安心安全も成長も保証することが出来ないのだ。

だからこそ、授業の目的や学校の教育目標について何度も丁寧に確認しながら、授業の「手段」についてはお互いに尊重できる余地を探ることになるのである。

まあ、難しい言い方をしたけど、教員という人種は「生徒が思わず夢中になって成長している」姿には弱い。自分のこだわりよりも、生徒の力強い様に納得させられてしまうのである。

だからこそ、生徒の姿を共有することを丁寧にすることが、自分の仕事を自由にする第一歩なのだ。

学習材を考える

生徒が学ばなければいけない素材をなかなか自由にさせることは難しい。法的な意味でも、授業を週に大量に回していくということから考えると、そうそう簡単に「個別最適」とは言えないのである。

まあ「個別最適」をそれぞれの生徒が好き勝手にドリルやる…という程度の話で捉えるのであれば、ICTに任せればできるのかもしれないが、そういう意味での「学びを自由にする」は貧相だろう。

この本のようなイメージを実現することも目指しつつも、一方で現実的な教室で出来ることは何かということを考える。

色々と考えてみて、逆説的になるのだが、やはり学習材そのものをよく考えることがその近道なのだろう。

生徒の実態を知り、学習材自体の本質を知るからこそ、授業で教えるときに手段に固執することなく、より自由な方法を選べるようになるのだろうと思う。

自由になるためには、何年修行すれば良いのだろうか?

教育者としての観を鍛えるということの途方もない長さに気が遠くなる。

 

 

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