受験に向けて対応が続きます。おかげさまでまったく生徒から預かった添削は進まない。家に持って帰ってまではやらないつもりであるので、いつまで溜まるのだろう……。
それはともかく、早く帰宅できることを活かして、比較的本を自由に読めています。今週を過ぎると、その余裕もなくなるので、今週中に読めるものを読んでおきたい。特に、以下の本は今週のメインである。
プロジェクト型の学習の実践は心が躍ります。
プロジェクト学習を成立させるもの
この手のプロジェクト型学習、PBLと呼ばれるような学習を成立させるには、相当に、学校の在り方を考えなければ厳しい。まさに、子どもたち自身がプロジェクトを自らのものとして引き受け、最終的な成果をまとめあげるまで粘れるかどうかは、その学校の文化、雰囲気にかかっている部分も少なからずある。
この本で書かれていることは附属だから出来ると言い放っていいことではないよ。文化として学ぶことを子どもも教員も作り上げるために20年近く色々と積み上げているのだから。出来ない理由をまず反論するのはやめないか?と思うのである。『福井発 プロジェクト型学習』 https://t.co/Mw7lMr1qE5
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年12月9日
生徒の協働や探究を保障する前提として、教員の協働が出来ていなければ厳しいのだ。教員が教科なり自分のことなりに固執して、体制として動ける姿勢がなくなってしまうと、まずプロジェクト型の授業は無理。探究自体が教科の枠を超え、教員の都合を超えたものであるし、でなければ、意味がなかろう。
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年12月9日
裏を返せば、教員自身が探究する、学び手でなければ、そういう文化は育たないだろうなと思う。精神論のようだけど、「枠を超える」という、越境するということの感覚は、他人事に理解するのは難しく、体感しなければやはりかなり難しい。マニュアルでどうにかなるものでもなかろう。
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年12月9日
いきなりは無理がある。
できないことを責めてもどうにもならないような高いハードルである。少しずつ、どのような方法で「探究」型の学びが実現できるのかということを考えていかなければならないことだろう。
ただ、これは「知識」か「探究」かという二項対立の話ではない。どちらの学びも往還することで、より一層、それぞれの段階によい効果がある。今は、極端に議論を二者択一にして、信念闘争をしている場合が非常に多い。もう少し、柔軟に考えられないものか……とは思う。
自分?自分は全ての学びはプロジェクトベース型で出来るはずだと思っていますが、いきなり、今の学校で可能だと思うほど楽天家ではない。
教員の立ち位置も少しずつ変化させて行きつつ、どのような学び方の可能性があるのかということを考えていければ良いなぁとは思っている。その意味で、EdTechによって単純な知識の習得をできるだけ圧縮して、きちんと定着させた上で探究の時間を確保しようという発想の経産省の「未来の教室プロジェクト」はかなり期待している。
もちろん、気になることがないわけではないが、「知識」の修得にかける時間と負担を減らせる方法があるなら、そのほうがいい。「学習者中心」のための手段として上手く生かされることを期待している。
最後はどこまで任せられるか
プロジェクト型の学習にしても、学習者中心の授業にしても、結局、最後はどこまで生徒に任せられるかである。
指導として任せるという感覚である。教えないではない。
正解を教えなければ、正しく学べないという考え方ではなく、教えるべきことを教えて、より考えることに時間をかける、考えることで最適解を作り出せるはずだ、時間を保障できれば自分自身で伸びようとする力はあるはずだ、そういうことを信じて、適切な指導を選んでいきたいのだ。