昨日までの続き。
授業へのICTの導入について三年くらい前に書いた文章を再構成で書いてます。
今日は学びのイノベーション事業実証研究報告書:文部科学省を踏まえて少し書いてみようと思います。
どのようにデザインするのか
学びのイノベーション事業実証研究報告書では、ICTを活用事例を以下のように分類して説明している。
この内容をきれいに図にしているのが「ICTを活用した教育の推進に関する懇談会」報告書(中間まとめ)である。
ICTを授業に取り入れようということを議論するときには、どうしても「どんなことができるのか」ということが先行し、そのことに終始しがちであるが、授業者は上記のような活動の質的な差異を自覚するべきだろう。すなわち、「一斉学習」「個別学習」「協働学習」のいずれの場面でICTを用いた活動を行いたいのかということについては、最低限自覚的しておく必要はあるだろう。
特に、一般的な教員の意識においてICTというと「PowerPointを使って授業する」「動画や写真を黒板に写す」「デジタル教科書の活用」「タブレットでネット検索する」などの、上記でいうところの「一斉学習」や「個別学習」の一部に留まってしまっている。教員がICTに対する認識を矮小化してしまうことによって、生徒がICTを活用する可能性を狭めてしまう。だからこそ、「活用の場面」について一斉学習、個別学習に留まらせないという意識や、ICTで何ができるかという知識を教員が持つ必要がある。
その時に、注目しておくべきこととしては、上図のICTの活用の場面として挙げられているものとしては「一斉授業」の比率が低く、「個別学習」「協働学習」の比重が大きいことだ。
もちろん、教育改革においてアクティブ・ラーニングが必要とされている文脈があるので、個別学習・協働学習の事例を多く示しているという側面は否めないだろうが、それでも、ICTを必要とする背景には学びの質的な転換を実現するためということがある。
従来の「一斉授業」を補完するものとしてのICTを想定するのでは不十分であり、ICTによって「一斉授業」ではなしえなかった学びの実現が望まれる。
教員の意識の問題
ICTと一般的な教員の相性はすこぶる悪い。何かと「あれができない」「これが問題だ」「意味がない」などなどと揚げ足取りに必死になって、授業の質的な転換を考えることやICTの活用を指導することが必然的に求められているという社会について考えることはほとんどない。
意地の悪い言い方をするならば、良識的にICTは教材の一つだという言い方をする教員も少なくないが、そのような言い方の根本には「教科書とノート」で勉強する補助としかICTを考えておらず、揚げ足を取る人たちと別に大差はない。どちらもICTを使わなければ、授業の質的な転換もないだろう。
授業の質的転換
ICTのことを高性能な資料集程度にしか考えない教員は多い。だから、ICTの活用といった時に、ちょっとインターネットで調べさせることや動画を見せること程度のことを、さも新しい授業のようにいうケースが多々ある。
確かにICTによって膨大な情報を手に入れることができるようになるが、しかし、ネットで検索するだとか動画を見たり写真を撮ったりする程度のことが学校でやらずとも、現在においては子どもたちが日常生活で十分に身に付けていることである。授業でやる意味がない。
しかし、この情報の検索をさせるということ一つをとっても、例えば、情報の信頼性についての検証の仕方を教えることや引用など著作権について指導する……となってくれば、ICTを実際に授業で使って活動する意味も出てくる。しかし、「調べること」に終始しやすいのである。
このような事態に陥ってしまう原因として、自分の周囲を見て思うのは、繰り返しになるが「何のために」ということを教員があまり考えていないからである。「情報」についての教育の必要性が問われるようになってきているということを理解していれば、検索させること一つをとっても、上述のような指導を考えるはずであるが、そのように意識が向いていかない場合が多い。なぜ、ICTを教室で使わせ、そして指導しなければいけないかということを突き詰める必要はある。
また、そもそもとして調べものをするということも、一斉授業で資料集を読ませるのと同じような感覚で行われるため、その方向でいくら活用していっても、授業の質的な転換にはつながらないのである。
結局、同じことを一斉にやらなければいけないというフレームから外れていかないと、ICTによって、納得いくまで何度も試行錯誤ができるということや他人との協働作業がしやすいということなどは活かせないだろう。
機能制限をめぐって
ICT機器を生徒に持たせる時に、できるだけ問題が起こらないようにあらゆる機能制限をつけようとする傾向にある。それどころか、ICT機器を売り込みに来る企業の方も、様々にフィルタリングできることや機能制限できることをメリットとして強く推してくる。
これも社会が学校に期待していること(例えば、情報のリテラシーを育てる)からすれば、問題を先送りにするような愚行にしか思えないのだが、教員としてはどうしてもICTで新しい問題を起こしたくない方が先に立つ。
フィルタリングや機能制限されたICT機器は、できることが限られてしまうという問題も大きいのだが、画一的にカスタマイズもできない機材で何か知的な作業をやろうということに無理がある。愛着一つ持てない。
そうしたガチガチの機能制限の中では、企業が持ってくる、全く社会の中で使えないアプリやサービスだけしか使いようがなくなってくる。そうなってくると、もはや、一体、ICTで何を学ばせたいのか意味不明である。生徒だって面白くないのだから、死蔵された文鎮とタブレット端末が化すことは必然であろう。
まとめ
ICTを活用した授業を考えるならば、ICTの特長を活かすことだ。ICTの特長を理解せずに、従来型の試験問題で成果を測るような一斉授業の延長の文脈でICTを使うことは、成果を得られず徒労で終わることに繋がるだろう。
社会の状況や学びの質的な転換について理解をしていくことをなしに、ICTの活用は難しいだろうと思う。それができないのであれば、使わない方がよほどマシである。
しかし、使わない、無視するという対応が、この社会において学校にできるか、学校として誠実な対等なのかは考えるべきだろう。