ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

「子どものため」と切り離した方がいいこと

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久々に休み。やっぱり体調がよくないこともあるけど、休みなく働いているとパフォーマンスが下がるのが分かる。

最近、部活動問題を含めて教員の勤務実態があまりに酷いことが取りざたされているが、自分の体調から考えてみると適度に休みがないことにはきちんと働けないというのもよく分かる。

そんな時に、学校の教員の特殊性というか負わされている責任としてあることが「子どもが相手」ということである。だからこそ「子どものために」が合言葉になりがち。

でも、その合言葉は働き方に考えるときに話を複雑にしてしまい、面倒なことになるんじゃないかなぁという話。

「子どものため」は前提条件

教育に関わる限り「子どものため」に何かすることが仕事であることは間違いない。

授業をするにしたって、生徒指導をするにしたって、話題になっている部活動をするにしたって「子どものために」という前提を間違えると、「自分が好きなことだから子どもに強いるような部活動」になったり「保護者ウケするからやる危険な組体操」になったりするわけだ。

だから、どんな仕事をするにしたって教育に関わる限りは「子どものため」になるのかどうかを点検する必要はある。

授業一つとっても、アクティブ・ラーニングをめぐる騒動がついつい指導法うんぬんの話になって、「〇〇法がいい」という宣伝になったり「今までと変えなくていいんです」という先送りをしたり「活動することが大切なんです」という這いずりまわる経験主義になったりと、つい「子どものため」という視点からの議論が行方不明になりがちな感じはする。 

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感情的な「子どものため」は危ない

しかし、だからといって「子どものため」をいう言葉の使い方には注意が必要だ。

第一に「子どものため」とは何かということを論じることが難しいということがある。誰かが「これは子どものためだ」という言い方をすることも、他方では「それは子どものためにならない」ということだって少なからずある。

校則をめぐる議論だって、自分の立場としては「校則は無くすべき、校則を作るならば生徒に委ねるべきだ」という主張をするが、一方では「いや、生徒を守るためには必要だ。生徒の成長のためには必要だ」という意見だって出てくる。 

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そのような対立については、言葉を尽くして話し合い、折り合いをつける余地があるものであるならば、さほど問題にはならないのだけれども、得てして教員同士が感情的になりがちだ*1

最近になって「エビデンスベース」という言葉が出てきて、「客観的なデータに基づいて考えるべきだ」という主張なんかも出てきているけど、質的に評価しなければいけないことも多い学校現場では、エビデンスと強固に主張することがすでに感情的になっていたりするという笑えないこともあったり……。 

「学力」の経済学

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第二に、前提であるはずの「子どものため」を絶対に達成すべき到達ノルマにしてしまうと、教員が苦しくなってしまう。

現在の部活動問題が教員で解決できない理由の一つに「子どものため」になるからやめるなという圧力が外からかかることがある。教員が家にまで仕事を持ち帰って際限なく仕事をしている理由は「子どものため」にベストを尽くそうとしている一方で「子どものために」を迫られて「やるしかない」と追い込まれている面もある。

さらにいうのであれば、いわゆる教育困難校においては家庭が多くの問題を抱えていることもあり、場合によっては相当、教員が踏み込まなければいけないこともある。見聞きした範囲だと「警察に生徒関係で足を向ける」とか「生徒の連帯保証人になる」とかいうこともやるそうだが……「生徒のため」という使命のために必要なことかもしれないが、自分はそのような仕事はできない。

それが教員失格というのであれば、その批判は甘受するしかない。残念ながら自分は「子どものため」という使命よりも、自分の生活のほうが大切だ。

楽をしたい教員も受け入れるしかない

自分が適当に感想を書き連ねたこの記事よりも、丁寧に部活動問題について論じた記事が下の記事です。

www.taguchizu.net

一生懸命に部活動のことを考えている方の意見ですから、全面的に賛成です。反対することはありません。

ただ、一点、「楽をしたいという自分本位の輩」が問題ということについて、賛成だという一方で、「それでもそういう教員を受け入れることも残念ながら必要だ」という自分の意見を述べておきます。

まず「楽をしたい」ということと「必要な休みを取りたい」ということが外から見て簡単に判断のつくことではないということです。まあ、判断はつかないとはいったけど、実際は評判も変わるし一緒に働いていればだいぶ分かるけど、それでも内実は外からは分からないというのが事実でしょう。

定刻に来て定刻で帰ることは子どものためになるかと言えば、そもそも最終下校が定刻になっていない部活動や職員会議があったりする学校のシステムがあることがからすれば「子どものためにならない」と言われても仕方ないだろうけど、でも、無休で残業を強いられたくないという主張は楽をしたいという話なのかと言われると反論もしたくなる。

どの人が手抜きで、どの人がいい人かは、何となくは分かります。でも、それが正確かはわかりません。

この点については、自分は「子どものために」という観点から議論をすることからは降ります。自分自身を守るためにも、契約上の責務を果たしているのであれば、それ以上の責任を追及すべきであるとは思いません。

でも、自分にとって「子どものため」という前提は変わらないのです。だから、結論としては、「受け入れて自分のできることをする」程度のことしか思い浮かびません。

楽をしている人間を追及することで、自分の首を絞める可能性のほうが高いように思うのです。

自分の仕事や働き方は自分で決められるというのが健全な状態だと思うのです。その権利や選択肢を奪うために「子どものために」という合言葉が使われないことを祈ります。

*1:まあ、感情的になっている時点で子どもが主役でなくなっているのだけど。

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