ちょこちょこと読みながら積読になっていた本をようやく読み終えた。
発売から気づけばほぼ半年。なかなか読み進まなかったのは、非常にケーススタディなどで考えさせられていたからである。
実践のための一冊
最近、あすこま先生もこの本を読んだらしく、詳細な書評を載せられていた。
これ以上の書評を書けそうにない(笑)。
あすこま先生の書評を見ていただければ分かるが、この本は教室で実践される要素がふんだんに盛り込まれている。間違いなく、ワークショップ型の授業に取り組んでいる先生方が明日の授業から真似して、少しずつ本書が大切にしていく価値観を身につけていくことで、生徒を勇気づけられるようなカンファランスができそうな気がする。
また、ワークショップ型の授業でないとしても、問答形式の一斉授業としてもちょっとした場面での言葉選びを変えていくことで、少しずつ教室の文化に好影響を与えていけるのではないだろうかと思う。
いきなり実践が難しいと思う人にも、本書は資料にケーススタディとして言葉の威力を検討できるような生徒のコメントや先生の授業でのやりとりの抜粋などがついています。自分がこの本をなかなか読み終わらなかったのは、このケーススタディにあたる部分を何度も読み直していたからです。英語と日本語という言語の差、あくまで参考資料として抜粋されて再編集されているものであるということ、実際には授業以前に積み重ねてきたはずの教室文化は分からない……など、色々と迷うことがあるものの、何度も読み直して、どの言葉が自分に繋がってくるのかということを考えていました。
なかなか生徒のコメントをまとめた部分を読んでいると、生徒が素朴に抱えている「価値観」に凄さを感じる一方で、悲しくなるようなコメントもある。その悲しさの原因は、まさに自分の教室で、自分が教えられないで陥っているものと同じなのだ。
本書は、このように、まさに実際の自分の教室と比べて、実践を挑戦してみて、改めて多くの意味を得るように感じる。一度、読んで終わりにならず、気の遠くなるような日々の実践に繋がっているのである。
言葉と価値観と教育観
教員の語りかける言葉が、子どもに、クラスに影響を与え、色々な価値観を形成していくということをとても注意深く取り扱った一冊である。この本の価値観は訳者である長田友紀先生の「まえがき」で次のように端的に説明されている。
子どもはそもそも学びたいという意欲をもっていますし、学ぶ力をもっています、他者とやりとりをしながら学びたいと思っています。子どもにはそれぞれのアイデンティティーがあり、ひとりの人間として教師からも仲間からも尊重されたいと思っています。そのためには「言葉」が大切であり、「言葉を選ぶこと」が大切であると著者は一貫して主張します。(p.ⅳより)
この子どもの「学ぶ意欲」と「学ぶ力」を引き出すため、支援するための工夫がまさに「言葉」である。
ある言葉を使うことで、無意識のうちに価値観が規定されてしまう。特に、伝統的な学校で使われる言葉遣いが、無意識のうちに子どもを無力にしていないかということに対する批判的な姿勢が本書では一貫している。例えば、本書のなかで「問題行動に対する教師の発言によって、子どもに暗示されること」(p.14)という表がある(実物を転載するのは憚られるので、ぜひ自分で本書を手に取ってほしい)が、その中の一つの教師の発言として
そこのグループ。作業に戻りなさい。終わらないと、休み時間にやってもらいますよ。
という例が挙げられている。
こういう教員の言葉が、決し珍しいものではないだろうし、多くの教員は身に覚えがあるのではないだろうか(笑)。
しかし、非常に手厳しい「分析」が述べられている。
その発言で暗示される内容
私たちは誰か…奴隷と支配者(雇い主)
私たちは授業の中で相互にどうか関わるのか?…権威による支配
私たちは学んでいることとどう関係づけられるか?…強要されてするだけ(否定的)。
このような批判になっていく一番の理由としては、本書が、教育とは「自立」できるようにすることと同時に子どもたちがコミュニティの問題に対して「主体的」になり、問題解決できるようにすることという価値観で一貫しているからだろう。民主主義の担い手として子どもの力を伸ばすという発想である。
だからこそ、教員と子どもと「権威と支配されるもの」に二分し、学びの内容を「強要されるもの」としてしまう言葉遣いを注意深く退けるのである。
この問題意識は、以下の本の中で早稲田大学の細川英雄先生が言語の教育について述べている部分と近いものを感じる。
……ことばの活動にとって重要なのは、自己と他者の関係の中で対話が生まれる環境であるといえる。したがって、次の課題は、そうした感覚・感情・思考の総体が活性化する対話の環境をどのように保障するかということであるといえよう。(中略)このことは、行為者一人ひとりが、一個の言語活動主体として、それぞれの社会をどのように構成できるのか、つまり社会における市民としてどのような言語活動の姿勢が求められるかという課題と向き合うことである。この市民性形成こそが、ことばの教育の重要使命であり最終的な目的ではなかろうか。(P.207)
これは「言語教育」の目的を述べたものであるので、『言葉を選ぶ…』とはやや扱っているテーマは異なる。しかし、「言葉」が「市民社会」の形成に直接影響を及ぼすのだという問題意識は共通しているのである。
アクティブラーニングの目的を「トランジション」課題の解決のためという溝上慎一先生の考え方は本ブログは何度か取り上げている。
この考え方に基づくアクティブラーニングは、基本的には「思考プロセスの外化」を避けて通れないものとして考えているが、まさに「言語活動」と「社会」の関わりということが問題の中心にあるといえる。
雑な連想をいうのであれば、子どもたちの「言葉」の使い方、その使い方を決める「価値観」は、教員の使う「言葉」、その言葉を選ぶ「価値観」に影響されていると言える以上、本書からは自分の「言葉」を振り返ることの重要性が分かるのである。
定量的な研究もありまして…
ちなみに話は逸れるが、教員の言葉遣いについて、実際に録音し、定量的に分析している研究がある。
本書とは問題意識は異なるものであるけど、言葉の影響力に注目するという一つの側面だろう。この手の話は倉澤栄吉が例えば『国語教育技術の体系』などで、教師の言葉遣いについて、何度も何度も論じ、生徒に刺激を与えることを論じていたことを勘や経験則ではなく示そうとしたアプローチかと感じる。
まあ、『言葉を選ぶ…』とは問題意識は違いますが。