消えた夏休み……。最終日も積ん読の消化です。
4月から積みっぱなしにしていた一冊である。熟読するだけの余裕はないので、例によってパラパラと気楽に読んでいます。
実践を読む機会として
本書は国語科における(もしくは国語科を超えていくための)「探究学習」の実践のレビューと今後の展望を述べるという構成の本である。
明治図書のような「ノウハウ」や「教室への活用」を主眼においた本とは異なり、質的な分析の積み重ねと論点の提示ということが主眼に置かれている。自分の教室にこの本から学んだことを持ち込もうとすると、ゼロから自分で論理立てて考えることになるだろう。
この本の魅力は、何よりも豊富な実践例のレビューがテーマごとに並んでいることである。古いものは戦後まもなくの教室のものもあれば、ここ数年の新しいものもある。
神懸かった名人の授業のレビューもあれば、いわゆる「普通の」学校における実践までバラエティに富んでいる。個人的には1990年代ごろの探究型の学習が面白い。そのころには「探究」なんて言葉はなく、詰め込みからゆとりへという流れの中で、子どもたちの中から出てきた実践であるだけに、非常に生き生きとしているように感じられるからだ。
外側から、探究探究と言われてお尻に火がついてやっている探究と、教室の内側から子どもたちの興味関心や実態に対する深い理解から生まれてきている実践のもつ活力を感じるのである。
実践記録を読むということは、なかなか機会としては多く取れない。本書で紹介されている実践も、よく知られている有名な実践もあれば、どこかの学校の紀要にしか出てこないようなこともある。しかし、どこかの教室で実現された「探究」なのだということに心が躍るのである。
実践をたくさん読めるということが楽しいと思うなら、本書は買っておく価値がある。
時間と手間がかかる
本書で紹介されている実践を見ると、どれもかなり息の長い実践である。非常に手間暇をかけているし、授業時間だってかなり長く取っている。
実践記録には見えてこない、これらの単元を準備するために教員のかけている手間、この単元に至るまでの教室での学び、他教科が子どもたちが支えていること……そういうものを考えると、実践の結実までには我慢が必要なのだろうと思うのである。
この本の中で授業づくりについて「ロマン」ということを述べているのだが、そういう言葉がまさに違和感なくピタリとくるのである。
費用対効果という面で言えば、「生産性は低い」と言われてしまうのかもしれない。でも、「生産性」に回収できない、教えるということの模索がある。その模索の積み重ねで、国語科の射程とすることが何かが分かってくる部分も大いにあるのである。
お手軽な型で金太郎飴のような授業を量産することも、教科書と指導書だけを読むことを授業研究ということも、自分には違和感がある。もちろん、忙しいことも分かる。校種の違いは大きいので、小学校の場合は自分の得意不得意は出てしまうだろうし、全教科を同じレベルで教材研究して超人的にカバーできる人はいないだろう。
でも、自分の中にテーマを持ち、生産性に回収できない授業の実践と記録に、何度も挑戦しないといけないのではないかなと思うのである。
ペラの一枚に指導案をまとめて授業を量産するスキルも、多忙な現場で生きていくためのスキルだろう。
でも、授業をするのが怖くなるくらいに研究や実践を調べ、大量の指導案の文言を書き、授業記録を精緻にとり、実践をまとめて意味づけるということは手間がかかるし、日の目を見ることはほとんど無くても、やらねばならない仕事ではないか。
まあ、そこまで言わなくても(自分ができていない)、授業を非生産的に熱中して作るという経験は必要だと思います。こだわることが非生産的で、無意味だとされそうなことに危惧を感じるのです。
国語科の教員としての宿題
さて、本書の話に戻ろう。
渓水社の『ことばの授業づくりハンドブック 探究学習 ー授業実践史をふまえてー』のあとがきで早稲田の幸田国広先生が「もしかすると、近い将来、高等学校では国語科という教科は消滅するかもしれません」と述べいるけど、このことのリアリティを自分はどこまで受け止められているかなと自問する。
— ロカルノ (@s_locarno) 2020年8月15日
こういう本を書かれている幸田先生からの問いだからこそ、この「消滅するかも」という言葉は重い。
※こちらの本のレビューもそのうち…。
やっと高校の国語科に注目が集まるようになったものの、それはまだ現場の実践レベルではなく、どちらかと言えば、論理や理論による空中戦のような印象を受ける。つまり、現場の教員の意識よりも高いところで行われている価値観の議論で、現場の行動にまでは繋がっていない。
今後、探究も含め、国語科がどういう立場で学校教育の一角を占めていくのか、はたまた消えていくのかは……あと30年は国語に関わるだろう、自分にとっても宿題なのだ。