平成最後によい本を読みました。
平成最後の読書を始める。読み終わるかな、平成のうちに。 pic.twitter.com/AuOTOvKyg4
— ロカルノ (@s_locarno) 2019年4月30日
すでにあすこま先生が詳しいレビューを挙げているので、自分にこれ以上詳しいレビューは書けないです(笑)。
教室への応用という観点であすこま先生以上の情報は自分には出せないので、「教員研修」という点で思ったことを書いておきます。
レビューというよりは感想なのはご愛敬ということで…(笑)。
教員の熟達にも近道がない
本書で紹介されている教員としての技術向上の方法は、今、教員をやっている人にはお馴染の話題が多い。例えば、「二人以上でお互いに授業を検討しあう」だとか「自分の教室をビデオに撮って見てみる」だとか。
詳しい内容はこの本の一番大切な部分だと思うので、ネタバレしてしまうようで、ここで書いてしまうのが気が引けるので書かないけれども、自分が読んだ第一の印象が、日本の教員たちが、自らの授業研究として蓄積してきた方法とぴたりと重なるということだ。
教員の学びが、至極真っ当な提言に思える1番の理由は、もしかしたら、この本で書かれていることが、日本のいわゆる普通の授業研究や検討会でどこでもやっていることに見えるからかもしれない。公私問わず、授業について、さまざまな努力で研鑽しているのが、図らずも合理的になっているのかなぁ。
— ロカルノ (@s_locarno) 2019年4月30日
この本は、教える側の熟達が必要であることをはっきりと述べている。つまり、Pedagogical Contents Knowledge (PCK)についての専門性を磨くことの重要性と、そのための方法としての教員の熟達の方法が述べられているのである。
参考
本書では全部で9つの原理が提案されており、そのうちの8つが教室に対するもの、1つが教員の学びについてである。この最後の教員の学びについての原則が、前の8つの教室での原則を踏まえたものになっているのも、注目すべきところである。
つまりは、教員の学び・熟達も、子どもたちの学びと同様に、地道で時間が掛かり、近道がないものであるということが痛感させられる。同時に、教員がそのように地道で、着実な学びをすることで、教室で適切に子どもを支援できるようになる、子どもの学びの手本として振る舞えるのだろうなぁと感じさせられるのである。
教員の専門性を考える
この本は認知心理学から確実に言えることは何か、ということを徹底したうえで教室で何が起こっているかを説明している本である。そして、それは教員がつい飛びつきたくなる神話を注意深く退けながらも、すべての現象が原則通りに動くのではなく、実際には現場で教員が色々なことを見取り、様々な工夫を用いて子どもたちを教育することの重要性を大切にしている。
教員たちの工夫が、つい証拠のない、心情的に受け入れやすいものに偏りがちなのは、自分にも身に覚えがある。だからこそ、本書のような研究的知見からの相対化は必要だと感じる。
とはいえ、実際に子どもたちを相手にするということは、単純な法則だけではないのである。色々な事情をすべて考えながら、その場その場で教員は授業をしていく。
その場、その場でなければ出来ないこともあるし、その工夫が思い込みだけに陥らないための基準も必要である。
本書の最後に教員の熟達、研鑽の原則と重要性が説かれるのは、そのような緊張関係を上手く反映しているように思う。
この本の読み方として、現場を持つ先生方は、この本に書かれる原則を全面的に取り入れるのでも、見ないふりするのでもなく、原則を原則としつつも、自分の現場で何が起こっているかに向き合うことが重要なのだろう。
教員の学ぶ文化は強みである
教員の大多数は、学ぶことに対して貪欲である。
もちろん、その学び方の差はあるだろうし、方向性の違いはある。
しかし、お互いの授業を見合い、コメントしあうようなことが、広く、当たり前だと共有されていることは、やはり強みだろうと思う。
自分の身近に、授業を相談しあうことができる環境を学校として持っているか。私立に勤務していると、自分たちでそれを作る必要があるのだなぁとしみじみ思うのである。