各地でルールメイキングが流行っているように感じる。
この本が昨年に出版されていることやカタリバのルールメイキングプロジェクトなどが認知されたりすることによって、各地で校則の見直しに挑戦する学校は増えている気はする。
生徒が主体となって校則の見直しに挑戦することはよいことだろう。自分たちの手で何かを変えられるのだという体験は重要だ。
しかし、大人のメンタリティは子どもの柔軟さについていかないように思うことを目撃させられることがあまりに多い。
ルールを変えることを
教員の中にはルールを変えることは子どもたちに対する譲歩だと思っている無意識に傲慢な態度を平気でとる教員がいる。
「生徒の態度が悪いから変える必要が無い」とか「生徒の意見を聞いたら際限なくなる」とか、何をしたいのか理解不能な主張がさも当然のように主張を聞いたことは、自分の経験上一度や二度ではない。
生徒に譲歩したら教育できないと思っているのだろうか。
学校という場であり、様々なルールを学ぶ場であることを軽く扱うことはあまりよいことだとは思わないが、だからといって生徒を校則に服従させることがルールを学ばせることにはならないはずである。
正当な手順と正当な対話を通してルールについて議論をしようと子どもがしているならば、その意見を対等に議論の俎上に挙げるべきである。正当さが欠けているならば冷笑していないでどうすれば正当な主張になるかを教えれば良いのである。
ルールは変えられる可能性を持つということを教員が教えないでどうするのか、と思うのである。
自分の名前で言うべきで
生徒の行動に対してルールを縛りたいというのであれば、教員だって自分の名前でオープンな場で主張すべきである。
ルールメイキングに参加する生徒は個人が特定されて、教員から「目をつけられる」というリスクを犯すことになるという不公正な構造になっているのに、教員は誰が言い出したかを隠したままに、ルールだけを生徒に押し付けようとするのは卑怯である。
自分の名前を出してオープンな場で言えないようなことをルールとして生徒に押し付けるべきではない。
自分の主張が真っ当なもので、関係者に理解されるものであると考えるのであれば、自分の名前で主張をするべきである。そして、生徒に反論されるならば、論理的に、大人として、自分の意見を押し通せば良い。
感情的になったり無理を押し通したりする真似は大人の仕事ではない。