学校はあらゆる面で規律が存在する。
それはその学校のアイデンティティにも関わるようなこともあれば、正直、惰性で残ったままになっているどうでもいいことが存在する。
前者の場合については個人の価値観と対立するような場合であっても守らなければいけない時はあるし、後者の場合はさっさと変えてしまった方が良い。
ただ、いずれの場合も生徒を巻き込んで対話すべきなのだろうなという気持ちを最近は世の中の流れに併せて感じるようになっている。
よくも悪くも規律の中で生活しているのが現在の学校だ。
規律を必要とするのは誰か
規律をめぐってはあまりよい話を聞かない場合の方が多い。個人的にもかなり嫌な仕事になることが多いのが規律をめぐる議論であり、そもそも規律が子どもたちの都合を無視して押し付けられる場合も少なからずあるので、話がややこしい部分がある。
校則という言い方をあえてしていないのだが、明文化されている校則以上に、暗黙の規律の方が更に数としては多く、自体としてはややこしいことだらけなのである。
多くの場合は対話が足りていない。
何となく触ることが怖くなっている、億劫になっているということも多い。
規律は安定の中に生まれるし、規律があることで安定することも多い。だからこそ、安定であることは仕事をする上で教員にとっては安心につながるものである。
生徒にとっても規律が蔑ろにされないというのは安心につながる。何か困ったときにこそ、規律が生きてくる。規律が機能していない場所は混乱に直接対峙することになる。
だから、何となく違和感を覚えていても安定の安心を優先するために、そういう違和感に触れずに進んでいく……ということも珍しくない。
だから、規律が必要だと感じるならば、その気持ちは丁寧に尊重されるべきであろう。
授業のために与える規律は…
授業において、その教室の授業担当者がどこまで規律を管理するか。
授業力の一つの指標として「授業規律があるか」ということはよく言われる。規律があって指示がきちんと通る教室は、授業力の高い教員の教室だとイメージされる。
もちろん、そのイメージに大きな間違いは無いだろう。授業で教員がいざというときにハンドリングできないのは、そこに守られない子どもが出てくる可能性があるので、避けた方が良い。
ただ、どこかのタイミングで規律をキツくたたきつけるようなやり方からは離れていっていいのではないか?と思うのである。
一つ一つの言葉のかけ方、教壇での振る舞い方、授業の課題の内容そのもの……そういう教室の雰囲気をつくる立ち振る舞いによって、規律によって縛るようなことに頼らなくても自然と規律が生まれていくのではないか……。
そんなことを考えるのである。