教員採用試験の合否も出ているようですね。
自分のところに来ていた実習生も無事に合格してくれたようで肩の荷も降りたというものです。
新米教員として仕事を始めたのはつい数年前だというのにだいぶ色々な経験をしたなぁと思いつつ、教員養成課程に長々と在籍したこともあって学校現場にはそれほど新鮮味は感じなかったなんて思い出します。
机上の空論ながら、まあ長々と大学院まで居座っていたおかげで色々なものは見ていたし。
そもそも、自分が新鮮味をもって教育について勉強をしたのはいつだったかと思えば、大学一年生の頃だったなぁと思いだします。そんなころに読んだ本を思い出したので紹介します。
これから教員になる人たちの参考になれば。
形から入る癖
今も昔もさほど自分の性格は変わっておらず、意気込んで教育学部に入った自分はとりあえず大学の生協に行って形から入ろうと思い、次の本を偶然見つけたことを思い出します。
タイトルに釣られたのだよね。まさに自分の専門にしようとしていることだから、まずは形から入ろうと思ったのです。
ヘレンケラーの話から始まって、言語の機能や言語認識についての説明などを経て、授業論や領域についての各論に入っていき、また、研究分野や主要参考文献などが紹介されている本であり、今となって思えば、物足りなさや時流からのズレを感じることもあるが、大学入学当時の高校生と何ら変わりのない自分にとっては、全く理解できなかったな(笑)
結局、実践ベースで物を考えていた時期の自分には、その実践の背景を支えている話からいきなりされても、どうしてそれが必要になるのかということを理解できないし、そもそも実践についてだって、今になって思えばろくでもない授業しか受けてきていない……というか、授業は寝てたな、うん、受けてない。
だから、実践についての興味があったわけでもないし、そんな状態で論理編を読んでも何も重要性が分からなかった。
何度も名前が出てくるから
上の本を読んでいるときに、明治だとか大正だとかの実践については正直、飽きてしまってスルーしていた。だから、芦田恵之介だとか西尾実だとかの話が出てきてもスルー。恐ろしい話である。
でも、唯一、最近の人で何度も名前が出てきていたのが大村はまだったので、大村はまの本を読んでみた。
内容については以前に紹介したことがあるのでそちらを参照してほしい。
でも、愚かなボクはこの最初の段階では「ふーん…」としか思わなかった。何というか「面倒なことさせるんだね」とか「こんな先生がいたら面倒だったな」とかそんなことしか思わなかった(笑)
だって、それまで国語の授業で苦労することはなかったし、むしろ協働しても面倒なことになるという印象しかなかったから、なんだかなぁ…と思ったわけ。自己弁護をしておくのであれば、自分がこうやって思う理由の一つとして、学校の教員がろくに自分の興味に答えてくれないのに、小うるさいことばかりいうという拒否感が強かったということはある。入学の課題で必死になって色んな本を読んで感想文を出したというのに、「その本を読む年齢にふさわしくない*1」という一言だけ突き返された経験から、まあ、学校の教員にぐちゃぐちゃ言われるのは面倒だと思っていたのです。
そんな出会いをして以来、ろくに勉強もせずに、代わりに時枝誠記のほうに興味をもちまして、日本語学のことばかり色々調べておりました…。いいタイミングで
このように文庫化されまして、手元にいつでもお手軽に置いとくことができるようになったのも大きかった…。
結局、国語教育に戻ってくることになったのは
特に理由はないな、うん。
文法教育をやろうとしたら、国語教育の全体を見なければいけなくなっただけだと思う。
あと、タイミング的に現行の学習指導要領に変化していく時期で、しかも、PISAについて徹底的に大学で議論させられたことなどもあって、実践を見直すことに少しずつ意味を感じるようになったから。
こうして、目の前の必要に迫られていたら、現状に至るということである。
まあ、だから、結局、行き当たりばったりで生きているんだよね、今も、昔も。
たまに、自分の立ち位置が分からなくなることもあるけど、こうして振り返ってみると初めから確固たるものはなかった。
だから、教員採用試験をちゃんと受けて、きちんと公務員として勤務できる人の真面目さを思うと、きっと、多くのことは心配ないんだろうと無責任な助言をして、今日のブログはおしまい。
よくよく考えなくても、つい最近まで学生です、わたくし。
*1:なお、読んだ本は『存在の耐えられない軽さ』である。