あまり生徒を叱るような真似はしたくない。
別に叱れない訳ではない。本当に大切な時には叱らなければ、それはただの無責任であるから。
でも、叱るのは疲れるから嫌なんだ。叱ったところで、その生徒が目に見えて成長するということは殆どない。叱ることは成長のきっかけになることはあるかもしれないけど、その叱ることによって使うエネルギーの割には合わないと感じる。
本当であれば生徒自身が解決しなければいけないことなんだから。いくら外圧を強めても、それは形を整えるだけで中身の変化につながるとは思わない。
角を矯めて牛を殺すという言葉があるけど、本当に、その通りだと思う。
しかし、それでも今日は叱らざるを得なかった。
それだけに自分がすり減ったことを感じるよ。
叱らずに済ませることはできないか
教える側の選択肢として「叱る」と「叱らない」の両方を手にしているかは、教員としては重要なことだと思っている。
いざという時に「叱れない」と見透かされている教員では、どうしようもできない瞬間はある。生徒指導であるならば、そういうのが好きな(失礼)人に委ねてしまってもいいのだけど、担任として、教科担当として、自分の責任として𠮟らなければいけない場面はいくらでもある。
でも、それだけに叱るという選択肢をできるだけ安易に使いたくない。本当に、生徒にとって教員から面と向かって叱られるということはダメージが大きい。そのダメージの大きさに自分もダメージを受けるのが分かっている。
それに怒ってばかりの言葉なんて、いざという時にちゃんと聞いてもらえるとは思わないしね。
だからこそ、生徒に対して粘り強くどうするべきなのかを生徒に問い続けることをやらなければいけないと思っている。
『学び合い』の理屈でいけば2割の子どもに自分の言いたいことが伝われば、それが伝わっていくという。
数字や効果の検証は自分にはできないが子どもに伝えるべきことを伝えて、子ども同士で解決ができるのであれば、その方がよほど良い。
それでも叱らなければならないんだ
そうやって考えているから、自分はできるだけ叱らない。元々、それなりに威圧感のある姿と態度をしているせいか、何も言わないのに生徒のほうが戦々恐々としているが(笑)、基本的には叱らないし理屈を説くことしかしない。
子どもに委ねることができると思っているし、委ねられない教員でありたくないからだ。自分自身、教員の言葉なんてまともにいうことを聞いたことがないから、あまり叱る意味もないだろうという感覚もある。
それでも、だ。
それでも叱らなければいけないことがあるんだ。
それは、相手の人権や尊厳を著しく傷つけた時だ。いじめにつながることはもちろんだが、いじめ以前のちょっとしたことであっても、相手の尊厳を踏みにじるような真似をしたことについては厳しく咎めざるを得ない。
特に自分の仕事は、国語の教員だ。だからこそ、言葉を使って相手を踏みにじるような真似をすることについてはヒステリックに見えるようなことであっても、厳しく咎めなければいけないと思っている。
でも、それは、自分にとって非常にキツい。普段が明確な基準や感情によらない合理性で判断して生きているだけに、こういう時にだけ精神論のような基準を持ち出して、恣意的に生徒を叱ることが非常にキツい。
でも、それでも、自分はその叱ることを放棄することはできない。
安心して発言する場を作ることは、国語の授業においては前提の前提みたいなものだ。本当はこんな教員が叱る、叱らないの話ではないこともわかっているが、いざという時に教員がある意味で「発言したこと」を守るという姿勢を叱ることで示せないのに、どうして生徒は安心して発言ができようか。
自分の発言が茶化されるような教室と、その発言を許してしまう教員を前にして何を語ることができるのだ。
自分の指導の足りなさなのだろうか、自分の姿勢の不十分さなのだろうか。
本当に、今日は、久々に𠮟りつけた。
そして、自分がダメージを負った。
余計なことをしてしまったのだろうか。