昨日の続き。
初発の感想を活かすための方法を考えている。
何となく紛れ込んでくる「初発の感想」
明治図書から出版されている『教育科学国語教育』には、毎月、何かしらの実践報告が掲載されているが、その報告もよくよく読むと単元とは無関係なところに「初めの感想を書く」という計画が載っていたりする。
まあ、その実践に初発の感想があるから実践の価値を下げることはない(上げることはもっとないけど)けど、それでも書かせた「感想」の行方が分からないことは、改めて拾い上げてみるとなかなか気持ち悪いものがある。
最近の流れだと感想の代わりに「学習課題を見つけよう」という流れも目にすることはあるが、唐突に音読や黙読の後に何かを書かせるという点については初発の感想とやっていることは同じだ。
読んだら必ず感想を持たなければいけないのか
国語の授業という枠組みをどう考えるかという問題はあるが、読んだ文章に対して必ず感想や疑問を持つことを生徒に求めることはできるのだろうか。
自分の答えとしては「No」だと思っている。読んだ文章に対して「感想」を開示を強要されること自体、教室という場だけの不思議な行為だ。もちろん、お互いに納得して感想をやりとりすることはあるだろうけど、それは決して感想文を書かされるような一方的なものではない。
何か文章を読んでその文章に感想を抱くためだけにも、文章に興味関心を持っていることや正確に文章の意図することを理解できることなどの条件が必要であって、そもそも感想を抱くよりも前の段階に支援が必要な場合だってある。
また、経験を書かせるときに教員は「このくらいのことを書いてほしい」と思うことが多いが、その期待は裏切られることが多く(笑)、それに対して怒る教員は少なからずいる。でも、一方的に押しつけて書かせておいて、自分の期待に答えないからと言って文句をいうのは随分ひどい話である。
とはいうものの、だからといって文章を読んで考えないままにしていてよいのかと問われると、上下左右に縛られた条件で運営していかなければいけない雇われの身としては*1、「考えてもらう必要はあるし、考えるのであれば書く必要がある」という風に考えている。
初発の感想から単元を始める
「単元の初めに初発の感想を書かせるのがダメだっていってんじゃないのかよ?」というツッコミをするのは待ってほしい。
「初発の感想を単元の最初にやる」という意味ではなく「初発の感想をスタートラインとして単元を作り始める」という意味だ。
生徒に「初発の感想」は書いてもらう。もちろん、書きやすいようにその文章の特徴や要素に合わせてワークシートや指示は工夫する。読んで感じたことや疑問に思ったことを記して目で見える形にする必要は必要として説いていくのである。
そして回収した初発の感想を添削して返すのではなく、生徒の疑問や興味関心を分類してまとめて、感想集として生徒に配布する。
そして二回目以降の授業で、その初発の感想をまとめたもとを生徒に読んでもらい、自分の考え方との差やどうしても疑問として感じることや考えてみたいことを生徒たちの中から学習課題として出してもらい、それに沿って単元を立てていく。
でも、「生徒からどのような感想が出るか分からないし、自由に課題を立てさせていたら必要な能力が身につかないのではないか」という批判や「単元計画がいきあたりばったりになるのはどうなのか」という批判があるかも知れない。
しかし、発想を変えてみれば「どのような感想が出るのかわからないという感想の書かせ方をさせることは無責任ではないのか」ということや「単元の計画を立てたうえで、生徒への感想集の提示の仕方を工夫することで、つけたい能力を自覚させていく手立てはある」ということを反論できるのではないか。
生徒にとっての他人の感想
感想集を読ませることにはけっこう意味があると感じる。
第一に、自分の感想が読まれることで「感想を書く」という作業が無駄ではないという感覚を持たせられることだ。やはり、自分が書いたものが他人に読まれ、反応がもらえるということは生徒にとってはうれしいことだ。だからこそ、感想集を読み合うことでちゃんと書いたものが無駄にされないというよさがある。
第二に、自分たちの言葉で述べられた感想は、文章の解釈のための大きな手掛かりになることが多い。感想の中でも用いられる言葉は、自分たちのレベルに合わせて自分でかみ砕いた言葉になっているため、直接、本文を読むことが苦しい生徒にとっても感想集に書かれた説明から本文への理解を深めるということが起こる。
第三に、自分が気づかなかったことを気づくという知的な行為が、生徒にとっては大人が思っている以上に楽しい活動であるということだ。生徒に適切な形で加工した感想集を読ませ、どんなことをやりたいかを考えさせてみると、最初に読むことをあれほど苦労していた生徒たちが、文章について必死に喰らいつこうとする。
大人がいくら言葉を尽くした説明よりも、自分たちの中から出てきた言葉のほうを、子どもたちは大切にして考えていく。
本当に、生徒に考えることを求めたいのであれば、生徒の言葉を大切にしているということを示す活動の時間を惜しんではいけないのだ。
*1:まわりくどい言い方をしているが、好きにできる条件が整っているなら一斉に同じ文章を読ませる必要はあまり感じていないのです