色々と故あって、読まれもしない指導案(略案)を書いている。
今年に入ってからは、受験学年ということもあって他からあまり見学にもこない(学校として歓迎されていない)ので、指導案を書くことをすっかりサボていた。
久々に書いてみて色々と思う。
授業記録だけでは…
一応、毎日、授業記録を日誌にして記録はしている。
ただ、忙しさに流されて、マンネリ的に書いているように感じるし、「日々」の授業を記録しているだけなので、単元全体の見通しや体系だってどのような意味があるのかということの検証が甘い気がする。
もちろん、授業を、単元を始める前にある程度の見通しや段取りを考えて行っている。ただ、それをわざわざきちんとそれなりにまとまって文章にしないので、自分の頭の中だけで終わらせているので、非常に曖昧で実態のないものになっているような気がする。
前にこんな記事を書いているのにね。
思うに、現実の生徒を目の前にして、指導案を書くことができるのは現役の教員の特権である。
本当に、様々な個性をもって色々な課題を持っている生徒のために、どうすれば適切な課題設定になるのか、どのようなアプローチをすれば生徒に響くのか、何が生徒にとって切実な課題になるのか……このようなことは、いくら理屈を積み重ねても、なかなか実際に生きてそこにいる生徒がいなければ、具体的で焦点を結んだものにはならないだろうと思う。
その具体性に対して、具体的なアプローチを重ねていく中で、一定の理論や原理が見えてくるのではないか。
そうして理論や原理を得ていくためには、やはりそれなりに授業について体系立てて記録と考察を積み重ねないとならないのだろう。そうなると、指導案を丁寧に書けるかは別としても、略案でもある程度体系を意識して書かなければいけない気がしてくる。
授業を組み立てる時には…
結局、現実に這いずり回ることで授業を組み立てていく。でも、這いずり回るとしても、ブレないでおきたいことはある。
それは真正性である。授業の目標や授業の活動が、現実の社会においてどのような意味を持つのか、どのような形で表れてくるのか、その点を説明できないような、教室ための活動にならないような設定を考えることを突き詰めたい。
もちろん、学習を成立させるための生徒のレディネスを考えるし、生徒の今の興味に合わせて適切な資料や課題を考える。素材が勝負である、必然性があれば何もしなくても読むし、話合う。
でも、それでも……彼らのその活動がその場で終わりになってしまうものではなく、今分からないとしても、どこかで思い出して活用されるような、そんな課題を設定できたらいいなあ……。
まぁ…とりとめのない感想です。指導案を書いていると、自分のやりたいことや足りないことが思い出されるなぁ。