ちょっと手間取りましたが、今週中に読み切ることができたので、簡単にレビューを書いておきます。
結論から言うと「アクティブ・ラーニング」について、実践ベースで方法論が様々な言われていることに疑問を持っているのであれば、「アクティブ・ラーニング」の導入の背景やこれから現場が解決しなければいけない問題が書かれているので、ALを検討するための基準として参照する一冊としていいかもしれない。
本書の構成の意図から考える
本書の内容に入る前に、本書の章立てを紹介しておこう。
- CHAPTER1 「アクティブ・ラーニングとは」をめぐって
- CHAPTER2 アクティブ・ラーニングを実現するために
- CHAPTER3 アクティブ・ラーニングと各学校・各教科等との関係
この構成を見てもらうと、アクティブ・ラーニングの方法論について議論しているような類の本ではないことがわかるだろう。まさにタイトルの通り、「アクティブ・ラーニングを考える」ための本なのである。
また、その考え方についても「このような方法論がいい」だとか「こうやればアクティブ・ラーニングができる」だとかいうようなことではない。
CHAPTER1がアクティブ・ラーニングが必要となる背景をしつこいくらいに色々な論者が様々な面から論じていることから分かるように、とにかく根本的に学力や教育に関するパラダイムが変わることの説明に紙面を割いている。
アクティブ・ラーニングに対して懸念を示す人が「基礎学力はどうするのか」ということや「理想論でゆとり教育の二の舞になる」ということを主張することがあるが、そういった意見とアクティブ・ラーニングを進めようとする人たちの議論がかみ合わない理由が、本書のこの章を読むとよく分かる。
議論しようとしている観点が全く異なるのである。どちらがよいかということは置いておくとしても、文科省が推し進めている以上、好むと好まざるとも一度は大きく変わるのだから、本書の序章に書かれる内容については、知ったうえで是非を論ずるべきであるように思う。
自分の立場をいうのであれば、「別にアクティブ・ラーニングである必要はないが、多くのアクティブ・ラーニング否定派がいうほど、悠長にチョーク&トークで教科書を教えているだけの授業に魅力はないし、社会の変化の激しさを無視して教えていたらダメだよね」って立場である。
逆に言うと、アクティブ・ラーニングをやろうといっている人であっても、本書の序章のような内容について、十分に理解をしようとせずに活動だけで話を進めている人は危ういと思っている。
今までの「論点整理」や「審議のまとめ(案)」で述べられてきたことの繰り返しではあるが、どうしてこの繰り返しの説明が何度も各所で行われているのかを考えるべきである。
このような自分の問題意識を本書の中で溝上慎一先生が以下のように端的に指摘していることに思わず膝を打った。
政府が…(中略)…知識基盤社会の到来、社会の情報化・グローバル化、生涯学習社会、最近では2030年の社会、2045年に人工知能が人の頭脳を超えるといわれる問題も紹介するようになった。教師は、これらの問題と現場の教育・授業実践を重ねて考えているだろうかと、と問いたい。社会の変化をこう並べられて…(中略)…現場の教育・授業実践との関係を考えようとするものは少ないのではないだろうか。学校教育が児童生徒の将来にどれだけ責任を負っているか、その重さをどう捉えているのかと、深刻に問いたい(P.57)
本書で注目しておきたい部分
本書は、「アクティブ・ラーニングの背景」や「アクティブ・ラーニングの方法論」や「評価論」や「カリキュラムマネジメント」など、様々な角度からアクティブ・ラーニングを論じているので読むべきことは多い。
どの話も十分に読み応えがあり、重要度の高い問題であるが、その中でも自分が特に重要だと思うものをいくつか紹介しておこう。
「手段として組み込み、期待する学習成果を上げる」(溝上 慎一)
上記で引用したような内容のことが書かれている。自分が慣れ親しんでいるということもあり、やはり内容としては非常に重要なことを述べているように思う。
「言語活動の充実」がアクティブ・ラーニングになりうるのかということについて、トランジションの観点から、もう一歩、深める必要があることを端的に述べているのも参考になる。
ただ、内容的には「シリーズアクティブラーニング」でも述べていることなので、そちらを参考にしても良いかも。
高等学校におけるアクティブラーニング 理論編 (アクティブラーニング・シリーズ)
- 作者: 溝上慎一
- 出版社/メーカー: 東信堂
- 発売日: 2016/03
- メディア: 単行本
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「言語活動とアクティブ・ラーニング」(市川 伸一)
現行の学習指導要領でも「言語活動の充実」が謳われながらも、それが十分に実現されることなく、現場が戸惑っていることを指摘し、特に思考力等の育成に必要な言語活動として、以下のような観点をあげてその重要性を指摘している。
- 説明すること
- 主張すること
- 質問すること
- 反論すること
この四つの能動的な言語活動は、「社会活動で基礎になる言語力でありながら、従来の学校教育では焦点を当てられてこなかった」ものとして挙げられている(PP.92-93)。
「『高い成果を上げている学校』におけるアクティブ・ラーニング」(耳塚 寛明)
これはお茶の水女子大学を中心とする研究班が行った「平成25年度全国学力・学習状況調査(きめ細かい調査)の結果を活用した学力に影響を与える要因分析に関する調査研究(PDF)」に基づいた考察である*1。
本書の中で調査結果に基づいて「アクティブ・ラーニングは見方を変えれば、学習への構えや態度といった非認知的パーソナリティが成否を左右する度合いが強く、また家庭の文化的環境の影響を被りやすい学習スタイルである」(P.114)という指摘は、「アクティブラーニングは格差を拡大する」とアクティブ・ラーニングに対してよく聞かれる懸念を集約していると言える。
そのうえで、「アクティブ・ラーナーを育てることが目的である」(P.115)と述べるように、アクティブ・ラーニングという学習形態の導入が自己目的化することに警鐘を鳴らし、調査から分かった学校が取り組むべきことや行政の支援の重要性を主張している。
ある意味、本書の中で一番、強烈な内容であるといってもいいかもしれない。
カリキュラムマネジメントについて
だれの記事が、という紹介の仕方はしないが、本書の中では大部を割いてカリキュラムマネジメントについての言及がなされている。
昨日、以下の記事でも引用したが、カリキュラムマネジメントについての天笠先生の意見を紹介しておく。
学級担任制であるにしても、また、教科担任制であるにしても、教科横断の授業を教職員の個人技とするのではなく、学校ぐるみの組織的なものにすることが大切である。(中略)カリキュラム・マネジメントは、組織の運営の改善を目指すものであり、アクティブ・ラーニングは授業の改善を目指すものとして捉えることができる。しかし、カリキュラム・マネジメントは管理職のもの、アクティブ・ラーニングは学級担任や教科担任などのものと、分けて分担して捉えるものではない。両者ともに管理職を含む全ての教職員が共有すべき発想であり技法であることを確認しておきたい。(PP.130-131)
この部分からもわかるように、カリキュラムマネジメントがすべての教員にとっての課題であるという意識で本書は述べられている。
教科や各学校段階での取り組みについて
本書は一通りの教科等や小中高、高大接続についての話が述べられている。自分の守備範囲だけ読んでもいいが、カリキュラムマネジメントが上記のように全職員の問題として言及されていることを考えれば、すべての内容について丁寧に目を通しておきたいところである。
議論のスタートラインを揃える
何かを変えようとするときには大きな反発もあるのが健全な議論というものであるけれども、教育というテーマは誰でも経験者であるために、安易に自分の好みで語られがちである。
別に専門家でなければ語ってはならないということではないが、一方で、時間をかけて議論されてきたことがあり、その議論してきた内容に対して理解せずに、何かを主張しようというのは、議論の仕方としては稚拙だろう。
本書は、正直、内容的な重複も多いし、具体的な方法論はしていないし、多くが文科省の職員からの主張であるので、現場からすれば絵に描いた餅のようなことを言われているような反感を持つ気持ちもわかる。
しかし、議論としては合理的に考えれば否定できないことは少なからずあるのだから、その点を無視して、今までのやり方に固執しているのでは社会の変化に対応できるのかは疑問だし、推進派にしても、形態の議論ばかりに終始しているのでは、結局、社会の変化についての責任が果たせるかは怪しい。
そんな大人たちの議論は、どちらの議論も教育をめぐってのただの大人同士の勢力争いにしか見えない。
まずは、議論されている資料や専門家のまとめた意見は聞くべきでなかろうか。もちろん、自分で十分な資料にアクセスして見識を持っているのであれば、その必要もないのだろうけど、一個人が研究者や文科省以上の情報を収集できるかは怪しいと思う。
徹底して思うのは、「とにかく感覚で教育を語らないでほしい」ということだ。別に、意見をいうなということではないのだが、あれもこれも押しつけられたら学校なんて何もできないんです。
だから、最低限、議論のスタートラインがそろうことを願いたいのです。