そろそろ始業式の学校などもあり、自分のほうの授業も迫ってきている。残念ながら、よいアイデアがないので現状、行き詰っているのである。
それはそれとして、色々とあってカリキュラム的なことを考えておかないといかんなぁ…となっているのです。
カリマネの全体像を学ぶ
カリキュラム・マネジメントについては以下の「教育ICTリサーチ ブログ」で非常に素晴らしいものをご紹介いただいています。
カリマネ曼荼羅もよいのですが、それより前のカリマネのまとめもありがたいところです。
カリマネの重要性自体は、アクティブ・ラーニングと同時期に出てきているのにもかかわらず、どうしてもアクティブ・ラーニングの衝撃に目がくらんで、ずっと話題としては下火であった。二年前の学研のフォーラムで溝上先生が割と強い口調で、高校の教員がアクティブラーニングにばかり目をやっていて、カリマネのほうに考えが及んでいないことを指摘していた記憶がある。
2018年となって、アクティブラーニングという言葉が人口に膾炙して、いよいよ教育課程を考えていかなければいけない時期だからこそ、カリキュラムマネジメントの方に段々と世間の目が向いているのだなぁと感じる。
今年度に入って、『国語教育』でも横浜国立大学の高木先生によるカリキュラムマネジメントの連載が掲載されている。
この連載が非常にコンパクトで分かりやすいので、色々な本に手を出す前に、図書館などでまとめ読みすることをおススメする。
好き勝手に色々と…
カリマネについて考えるのは、管理職や教務だけでなく、それぞれの教員がそれぞれの持ち場に必要なことを考えなければならないわけだけど、それは好きなことを好きにやっていいということではない。
どうも、そのあたりが上手く行っていないらしく、半径2メートルの観測の結果、それぞれの部署が勝手なことをいって、お互いに無視しているんじゃないかと思うのである。
未来のマナビフェスタのラップアップセッションで、中原淳先生がカリマネについて簡単な喩え話をしていた。
それは「大きな輪」と「小さな輪」を回していくという喩えだ。要するに教科や学級経営などで各教員が、色々やってちゃんと評価して計画を立て直して実践して…という「くるくる」をしつつ、学年団や学校全体で学校目標などに向かって色々とやってみて、見直してまた実践してという「くるくる」を回していくことがカリマネであると。
これは、よくよく考えてみると、ウィギンズとマクタイらの「逆向き設計」について、「ミクロの設計」「マクロの設計」と言っていることとほぼ同じだ。このミクロ設計、マクロ設計の日本語訳は以下の本にある
(引用元を探しているけど、見つかったのはこれだけ。http://www.mdc.edu/iac/documents/Work%20of%20Grant%20Wiggins.pdf13ページ目にあります)
思い切って簡単に言ってしまうと、小さく「くるくる」と授業づくりを始めて、段々と大きく「くるくる」して行きましょうという話。
カリマネ曼荼羅でいうと右上のマンダラで「くるくる」始めて、時計回りにそれぞれのパーツで「くるくる」回して、最終的に四つを同時に「くるくる」していくイメージでしょうか。
この「くるくる」が様々なレベルで同時多発的に行われなければいけないのだけれども、その「同時多発的」というのが「めいめいが自分勝手」に陥りやすいのである、というか陥っている様子を毎日見ている。
全体像を描くのは誰?
結局、全体像が見えないことが根本にあるように思える。
しかし、全体像は誰が描くのだろう?管理職から降ろされてくるものだろうか、それともボトムアップで挙げていくものなのだろうか。
理想を言えば、ボトムアップで議論しながら描いていければいいのだろうけど、残念ながら、それを許すだけの時間(だけではない)が足りない。日々に忙しい(だけではない)。
また、一つの学校の「価値観」というものは、教員の総和であるとは限らない。特に私立の場合は、創立者の建学の精神や親のニーズもある。教員のやりたいことや願いだけで出来上がるのではない。しかし、教員にその外側は見えにくい。だからこそ、管理職などリーダーシップが欲しくなることも多い。
さて、日々、何をすればいいんだろう。自分が自分の思うカリマネを提案したところで、それは自分に見えることでしかできないのだから、ほとんど意味をなさない。しかし、学級、学年、教科で自分がやらなければいけないこともある。
どうやって周りと折り合いをつけつつ、巻き込んでいけばいいのでしょう。