ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

自分が教師という言葉をできるだけ使わない理由

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今日は雑記、チラシの裏。特に根拠がある話でもありません。

ただ、個人的にこだわっていることなので、少しだけ考えを書いておこうと思うのです。

意味は変わらないのだろうけど

お気づきの人がいるかはわかりませんが、自分はブログやTwitterで何かの文章の引用などを除けば、ほとんど「教師」という言い方をしません。

このブログもおかげさまで70くらいの記事数になりましたが、引用以外で自分が「教師」という言葉を使っている部分はほぼ0です。興味ある方は試しに検索窓から検索してみてください(笑)

この「教師」と「教員」の意味の違いですが、試しにネットで調べてみると以下のような説明がある。

kotobank.jp

kotobank.jp

oshiete.goo.ne.jp

まあ、上のところを見てもらえれば、「どーでもいいわ!」という人が多そうな感じですね(笑)

学校に居たころの居心地の悪さ

自分はこうして現在は教員(教師ではない!)をやっているわけですが、もともと、学校なんてそれほど好きだったわけではありません。

どうしても座って話を聞いているのが面倒だったし、無条件に偉そうにする教師(これは教師なのです)の姿にうんざりすることは多かった。

一方で、内申点という制度についてもよくよく分かっていましたから、教師の機嫌を損ねるような真似もせず、中学校までは大人しくしておりました。

その分、高校に入ってから教師に対する嫌がらせに邁進するという嫌な生徒だった訳で、まあ、最近はやりの言い方でいうのであれば「レールから外れるリスクは高すぎる」という計算で大人しくレールに沿って暴れていただけです。

ですから、そもそも「教員」という仕事に対して何も憧れもなければ、何かができるというような信頼感も持ち合わせていないのです。

今でもその傾向は尾を引いている部分があって、不必要な頭髪服装の指導だとかケータイの使用の指導だとか、こういってはアレだが「別にそれで何か子どもの成長になるの?」というような訳の分からない指導ばかりに力を入れる人を理解できないでいる。

別に面と向かって批判したり、協力しなかったりするわけではないが、そういう学校臭いものを、自分の仕事なのだと誇りと自覚をもって取り組めないのである。

教師と言う語の持つ偉そうな雰囲気

別に国語の先生だから言葉にこだわるだとかそういう話ではないです。

そもそも、「国語の先生だから言葉にこだわる」などというふんわりと抽象的なスローガンは理解できないなぁと普段から思っている人間なので、自分がそんなつまらないことを言う気はない。

ただ、単純に、自分の経験からして「教師」という語が持つ雰囲気が、「エラソー」で「高圧的」であり、そして「論理の枠外にいる」というイメージのもので、自分の性格や感性と上手くかみ合わないのである。

この「教師」という言葉のもつイメージの偏りは、自分が生徒として経験してきたものから生み出されたもので、決して一般的なものではない。

だけど、一度、「教師」という言葉の持つ、教訓めいた雰囲気に拒否感を覚えてしまった以上、自分は「教師」にはなれないなと思ったのです。

ある意味、「教師」が嫌いだから、教育学部で「教員」になることを望んだのであるから、そもそも進んで「教師」になろうとは思わないのだ。

「教師」よりもっとドライに、たかが「教員」という意識で、学校で教えるということを考えていたいのである。

教師という言葉で抱え込みすぎているもの

また、「教師」という言葉を使うことで、「教える」こと以外ににも色々なことを抱え込んでしまっているようにも感じる。

たとえば、現在は教員の長時間労働が問題視されて、盛んに批判が言われるようになっているが、それに対する意見の一部には「教師のクセに子どものために粉骨砕身できないのか」というものがある。

この「教員の労働問題」と「教師のあるべき姿」という文脈での「教員」と「教師」の差が、自分が感じている「教員と教師」の差であるように思う。

たかだか「教員」であるならば、そこには別に必要以上の道徳や矜持を持ち込む必要はないが、それが「教師」という言葉に置き換わってくると、「教員」には求められないような道徳や矜持、責任までも押しつけられるように思うのだ。

教師は聖職者でなければいけない。こんな言い方がされることはあるでしょう。

でも、自分にとって、学校で教える人間は「たかが教員」に過ぎないのであって、職業倫理はあっても、ただの労働者でしかないと思っている。

「たかが教員」でいたい

この仕事は子どもから尊敬されるのは、真っ当に真面目に仕事をしていればそれほど難しい話ではない。もちろん、それは誇れることではないし、それを誇るようなことは気持ち悪い。

しかし、「教師」であることを続けようとすると、どうしても「尊敬を集めることができる人物」であることが前提にされるように思うし、目指さなければいけないようなプレッシャーを感じる。

もちろん、尊敬された方が仕事はしやすい、でも、全ての子どもが自分と馬が合うわけでもなければ、尊敬されたいと思うような振る舞い方を考えることにエネルギーを使いたくない。それは自分も子どももお互いに疲弊するだろう。

でも、教えることについては、自分がちゃんと納得している方法で子どもと向き合いたいのです。だから、教師になって抱え込まなくてもいいようなことについては、教員でいることで回避したいと思うのです。教えることにこだわるだけの余裕が持てないのであれば、たかが教員と思われているほうが教師になるよりずっと良い。

それは一種の責任回避なのかもしれない。

本当の教師とは?

こんな自分でも、何人かは「教師」と呼ぶべき先達のことは知っている。

言うまでもなく、その最たるものの例は大村はまだ。 

新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

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教えることの復権 (ちくま新書)

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自分はここまでの人間にはなれない。なろうと努力はするが、その空回りも虚しい。

無責任で教員に居続けようとする人間が学校で子どもの前に立っていてよいのかは、自信がなくなることが多い。仕方ない、そもそも教員向けのメンタルをしていないのだから。

だから、少しでも教えるということだけは丁寧に勉強したいのです。

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