また、というべきなのか。
自分の狙いが悪かったというのか、指導過程が悪かったというのか…。
期待したほどの成果が仕上がらなかったときがやっぱり精神的には辛いですよね…
最終課題で出てきた文章が情けなかった
生徒が悪いということではないことは初めに断っておく。結局、生徒が自分が期待したほど書けないない、ものを考えてくれないというのは、自分の与えている課題や授業の展開の仕方が悪かったことに尽きるから。
しかし、それとは別に、期待しているほどの返答が生徒からなかったことにはダメージを受けるのです。もっと生徒達の活動の様子や普段の様子からすれば出来るはずであろうし、自分が与えてきた材料もそれなりに意味のあるものだったと思っていたので、やはり、出てきた物の質が評価しにくいものであると、気持ちとしては辛い。
簡単に言えば、初発に書かせたものからほとんど変化がない文章が数多く提出されてしまったのである。
授業で時間をとって考えさせ、毎回、記述を書かせては添削をして……という作業をしてきたのにも関わらず、最後の記述が初発と変わらないとなると、肩を落とすしかない。
授業の活動は意味は無かったのか
テーマ毎に本文を何度も読み直し、まとめてもらうという形の学習活動を中心に行い、毎回の授業について簡単な小レポートを書いてもらい、それを添削して返すという授業を行ってきた。
だから、少なくとも、小レポートを読み返し、授業の内容を読み返してもらえれば、初発の感想以上の内容を書くための材料は与えられたと思っていた。
毎回のレポートの添削の甲斐もあって、初回よりも書ける文章がまとまってきていたし、内容としても踏み込んだものを書けるようになっていたので、最終レポートも形になると思っていたのだが……見込みは甘かった。
授業でも、最終レポートを書くための構想や考え方をアドバイスしてみたのだが……。
思えば、一回、一回の授業で考えたことをどうやって総合して、自分の言葉にしていくのかということについては確かに指導はしていなかった。自分としては、その「テーマでバラバラに見てきた内容」を「自分の興味や関心に合わせてつなげていく」ことを今回の「考えるという活動」だと思って設定していたので、あまりその点についてはコメントをしないでいたのだが、生徒はそうやってテーマをつなぎ合わせて別の観点で論じるというだけの考え方をもっていなかったということだろう。自分が生徒の実態を見誤ったと言える。
考えるためには余白を残しておきたい
基本的に、生徒に考えてもらうためには「教えすぎない」ということが必要だと思っている。また、先生が教えてくれるものだと思い込んでいる生徒に対して、教員は手助けをしないという態度を示しておきたいという思いはある。
じっくりと時間をとって、頭を使って悩んでも欲しいという願いだからだ。
だけど、どうやって考えていけばいいかという道筋が、今回の示し方では生徒にとっては分かりにくかったと言うことなのだろう。ちゃんと余裕を持って考える作業に入れなかったのは、どうしたらいいかわからないということが大きいのだと思う。
しかし、ね……それでも、初発の感想と同じ事しか書いてこないのは、まったく考えることを放棄しているようにしかみえないで、読んでいて心に辛い。