わりとちょくちょく色々なところにかみついている自分ではあるが、久々に思い切り反論しておくべきだという記事に出会った。
別にPISAの結果を受けて、教育に対して物を申したくなる心情は分かるし、そうした批判がすべて的外れだとは思っていないけれども(反論はするが)、こうやってデータを弄して自分の都合の良い主張を押し通そうとする不誠実さには噛みつかざるを得ない。
この記事で主張されていることの問題点を指摘しておこう。
PISAのスコアの持つ意味
PISAのスコアがどのような意味を持っているかということについては、2016年12月19日・26日号に分かりやすい記事が載っていたので、その事を既に先日、このブログで紹介している。
そこでも紹介した内容をもう一度紹介すると
PISAは3年ごとに中心分野というものを設けていて……中心分野では出題数も多く、推計の精度も高く……逆に言えば、それ以外の二つの分野(数学、読解力)は概括的にやっているだけなので、統計精度は低くなります。
得点は積み上げる方式ではなく統計処理をして、日本全体の姿を予測しているので幅があり……1点2点の点数や順位を前回と比べることには、ほとんど意味がないのです。
もちろん国立教育政策研究所の調査報告にも、調査の方法やスコアの出し方について説明されている。
数字を分析するのに数字の扱いが雑
このような前提を踏まえた上で今回の問題の記事を見てみよう。この記事には以下のようなことが書いてある。
今回、2015年は、読解力が4位から8位へ低下したものの数学的リテラシーと科学的リテラシーが両方とも順位を2位あげた。しかし、点数をみると三科目とも低下しており、喜べるような結果ではなかったといえよう。
この指摘にどれほど意味があるかは怪しい。
先日紹介した日本教育新聞の記事の中でも述べられているが、「得点自体に幅がある」ので順位の比較や推移を見ること自体にあまり意味が無い。
例えば、読解力についても516点という報道などの発表に対して、実際の信頼区間は510~522点の幅があり、順位も5~10位という幅で捉えるべきものだ。
もちろん、平均点の前回との変動については統計的に有意な差があるかどうかという検討差はされており、それによれば読解力は2012よりも有意に差があるというが、その前の2009年に比べると有意な差はないという。指導要領の改訂など、様々な背景を踏まえて考える必要があることを踏まえれば、単純な数字の変化によって教育の成否を測ることはナンセンスと言わざるを得ない。
また、この記事ではなぜか「三教科」の得点を平均し、その数字によって様々なことを論じているが、三教科の得点を合計し、平均化することの意味があるかは怪しい。
というのも、それぞれの教科の「重さ」がそもそも均等ではないことがある。上の教育新聞の引用でも紹介したが、PISAは調査毎に中心分野を決めており、中心分野とそうでない分野とでは問題数も異なり、得点の信頼性も異なる。そのため、このような「平均」を用いて、教育の効果を論じることに意味はあるのだろうか。
このような検討からも分かるように、今回の記事では数字の扱い方が雑である。多くの国の得点や順位と教育費などとの関係を論じているが、数字を用いてそのような議論をするときに、数字について慎重な扱いを示している資料を無視して、使いやすい数字だけで「データ分析」をすることは決してフェアな態度とは言えないだろう。
結論ありきで、安全圏から攻撃をする不誠実さ
このように調査資料を自ら当たっていないのか、当たっているのかもしれないが都合良く情報を切り捨てて数字を弄しているのか、そのどちらかは分からないが、いずれにしても数字を扱う割に酷くいい加減なことをしているのにも関わらず、次のような言い方をするのは、あまりにナンセンスではないか。
どうしたらよいかを考えるのを、文科省や先生たちだけに任せておくのでは、やはり、心許ない。また、そうした課題への対処を考えるのにPISA調査の結果は、極めて貴重な情報源であるのに、文科省の傘下団体の作成した結果概要資料を紹介するに止まっている報道機関にも問題がありそうだ。
国立教育政策研究所の「結果概要資料」を「御用学者の御用機関」で役立たずなものだと言わんばかりの言い方をするのに、自分自身のデータの扱い方が偏っているのはあまりに不誠実ではないか。
報道機関の報道の仕方に問題がないわけではないが、そのことと国立教育政策研究所の資料が信頼に足りないような書き方が許されるかは別問題である。
少なくとも、PISAの資料をこの記事のように都合良く改竄することなく、事実をまとめているだけでも、この記事よりもよほど信頼するに足ると思われる。
結局、この記事を書いた著者の本音は「文科省や先生たちだけに任せておくのでは、やはり、心許ない」という世間の論調を味方につけやすいところにあり、この記事も学校に対する非難ありきで書かれていると思われる。
また、記事の最後に教育予算に関わることとして次のようなことを述べているが、その内容も「非難」ありきである。
文科省は、少人数クラスの実現のため、教師数を維持・増強する予算を要求し、財務省は、少子化で生徒数が減っているのだからそれだけ教師数を削減するべきだと文科省の要求する予算を削る対応をする。こうした対立が長年続いている。この対立をめぐっては、文科省に賛成の立場の教育界以外からの本格的な参戦はないようであるが、もっと注目されてもよいのではないかと思われる。
少子高齢化が深刻化する中で、日本社会を支えてくれる我々の将来世代が力強く育てるためには、あまりお金をかけずに、少人数クラスを実現できるような教育改革が極めて重要な喫緊の課題となっており、そのための国民的議論がもっと沸きあがっても良いのではないだろうか。(下線強調は引用者)
一見すると「国民的議論がもっと沸きあがっても良いのではないだろうか」という公平な「議論」を期待したような言い方をしているが、この直前の文脈で教育予算と学力が関係していないように見える資料を提示していることや「教育界以外からの本格的な参戦」とか「お金をかけずに」とかいう言葉が見え隠れするように、著者の立場は教育批判にあると言えるだろう。
この拙速なまとめかたは、ほぼ暴論だ。根拠としてあげているデータの扱い方が雑なことはもちろんであるし、教育とカネを巡る議論の文脈を無視して単純化して費用対効果を言い過ぎだ(教育とカネの議論については以下の過去の記事に少し書いたことがあるのでご参照いただければ…)。
この記事がやっていることは、「注目を集めやすく」「簡単に専門外の人を騙すことが出来て」「自分にとって都合の良いことを言いやすい」ものを「データ」という数字を弄したに過ぎない。
そのような不誠実な議論によって、現場や教育に関わる関係者が非難される謂われは、どこにも、ない。