ベネッセが定期的に出している『VIEW21』という雑誌がある。
上述のように、今月号の特集は「中高連携」についてであり、教員の意識調査の結果などが紹介されていた。
まあ、最近の「小中一貫」だとか「中高一貫」だとか「高大接続」だとかの流れからしても、世の中の関心のあるテーマだようなぁと思って本文を読んでみたら…。(上のリンクから本誌のPDFをフリーで見ることができます)
大半の教員は「課題はない」と現状を評価している…だと?
本誌のP.3を読むと、今回の特集の要約が以下のようにまとめられている。
- 変化の激しい社会を生きる上で必要な力を育成するため、幼小、小中、中高、高大の学びの連携がこれまで以上に重要になってきている。
- 学校段階を超えた連携・接続について、小学校、中学校、高校のいずれにおいても、大半の教師は「うまくいっており、課題はない」と現状を評価している。
- しかし、連携の取り組み内容を詳しく見ていくと…(中略)…指導内容にまで踏み込んだ取り組みができているところは少ない。
- そうした現状の背景として、中高での指導観の違いや、その違いを認め合い、ともに考える姿勢の不足が連携の壁となっている。
このまとめを見て、とにかくびっくりしたのが「大半の教師は『うまくいっており、課題はない』と現状を評価している」という一文だ。
「中一ギャップ」という言葉がニュースで聞かれるようになったり、アクティブラーニングの文脈で「トランジション・リレー」という言葉が提唱されたり*1しているように、「学校間や学校と社会の間における連携には問題がある」という認識が、てっきり世間一般に浸透している問題意識だと思っていたから驚きだ。
少なくとも保護者からの相談で「中学校と高校の違いに戸惑ったりしないか」ということは比較的多い内容であるので、教員がこれほど楽観的に「うまくいっており、課題はない」というよりは深刻な問題があると感じる。
もちろん、本誌で紹介されているデータを見ると、小学校、中学校、高校と年齢が上がるほど「課題がある」という認識の割合は増えている(といっても8割は「問題なし」だけど…)。
中学校と高校の間で学習内容が違う?
本書のP.4-P.5を読むと、一般の方は「どうしてこれほど中学校と高校は別というのだ?」と疑問に思うかもしれないけど、「中学校と高校は別世界」という感覚は教員の世界では比較的一般的だ。
うっかりすると中高一貫校であっても「完全分業」で教員が違ったり、完全分業でない中高一貫なのに「高校しか教えない教員」「中学しか教えない教員」がいることがあるなど、中高が別だと考えるのは珍しくない。
世間一般からすれば「高校の内容の方が高度なんだから、高校の免許を持っているなら中学生も教えられるのではないか」という感覚もあるかもしれないが、それについてはやはり「そう簡単にはいかない」と言わざるを得ない。
どうしてもそれぞれの学齢の発達段階に対する知識が必要であるし、教え方そのものも変化せざるを得ない。得てして、高校の教員の方が子どもに対して無頓着であることは問題視されることは多い。
まあ、それはともかくとして、それぞれの学校に所属している教員は、自分の仕事に忙しくて、実は教科の内容についても、学校種が違うと無理解なことは珍しくないのです。
世間の心配をよそに……
そんなある意味で「綱渡り」な状態で学校から学校へとリレーされる子どもたちやその保護者の不安な気持ちに拍車をかけるような教員の言葉が本誌には続く。
例えば、中高合同の研修会を実施すると高校側が「学力不足の原因」を中学に押し付けることや中学側が数字を教育に持ち込むことに反発することがあるということが書かれているなど、要するに学校の外側から見れば「自分たちの縄張り争いをやっているだけじゃないか!」とツッコまれそうな話が書かれている。
しかも、そうした問題を乗り越えた先にあることには「問題を共有し合った」程度のことで、具体的な問題に対してあいまいな合意しか書かれていない。
これで連携が進んでいる…という評価であるとしたら、現在進行形の問題に対して相当悠長だろうと思ってしまう。
「社会に開かれた教育課程」…
教員が世間知らずというコメントにはあまり賛同はできないけど、もう少し問題意識が世間と学校の間で近づかないといけないんじゃないかなぁとは感じる。特に学校間の縄張り争いのような反発のし合い方はなぁ……。
*1:溝上慎一(2014)『アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換』など参照。