さて、大人の傲慢さに嫌気がさしているけど、授業のことは授業のこととしてやらないといけないと思っている。
今、生徒に取り組んでもらっている課題はテクニカルなことに取り組んでもらっていて、頭はパズルを解くような使い方をしていて、よく読んでいるけど広がりはない。
二学期期末の後半戦は深まりと広がりを持ってもらいたいな。
二年生の評論のまとめとして
あ、素材の内容としては前に記事を書いた内山節です。
次に頑張ってほしいなぁと思うのは、社会問題についての探究的に研究してもらいたいと思っている。ポスターセッションでの発表と、それを受けての小論文の執筆と二段構えでいけないかなと思う。
負担としてはかなり重いので軽々しくは投げられないけど……まあ、八時間くらいの時間は確保できるので…どうにかいけないかな?
ここまでやらせるとなると、果たして現代文Bの授業なのかと疑問になってくるのだけど、今の生徒の様子を見ていると、自分たちでどうにかしてくれるんじゃないかと思う。今日だって特に何も言わなくたって勝手に授業を始めているし、朝も放課後も集まって好きなように話し合っている様子が見える。
教科書の文章に対して「これってこういう意味だよね」とか「こういう風に思うけどどう思う?」とか授業以外にも友達と話し合っているって文化が育ってきてくれたのは、素直に授業者として嬉しい。
もちろん、課題としてやらねばならないという側面はあるけど、考えることが楽しいと感じてくれているのがよいと思うのです。時間を取られすぎて負担が重いと言われますけど……ま、重い負担を切り分けるのも勉強で。
ちゃんと自分たちで十分に読んで考えるという姿が見えるのはよいことです。
やっぱり冷静に考えれば無理させている
今の授業だって最終的にはパソコンで提出せよという課題であって、色々と条件も面倒くさい。にも拘わらず模擬試験が重なったり学校行事で授業がなかったりするので、授業内の時間が十分に取れているわけでもないし、慣れないことをやらせている分だけ生徒の負担感は大きい。
だから、冷静に考えれば、カリキュラム・マネジメントという意味でバランスを取るのであれば、現代文一教科が重すぎる。
でもね、授業中に熱中して議論している様子や放課後まで使って色々と考えている様子を見ていたら、無茶に見えるような背伸びをさせたくなる。こちらが無茶だと思っていても生徒の方が全然期待以上にできることなんてザラにある。
本当はもっとシンプルにしてどこまで頑張るかを委ねたほうがいいのかもしれない。でも、色々なスキルや手法は授業でちゃんと経験させることを保障させたいなという思いはある。
ちゃんと任せればできるはず
無理をさせているとも言えるけれども、一方ではどこまでできるか見てみたいという好奇心であるし、自分たちで考えて色々なことをちゃんと管理できるはずだという信頼もある。
だから、自分も生徒に余計なことを言わずに、自分が取り組むような問題をそのまま投げてもいいのかなという気もしている。それこそどこかの班に交じって一緒に議論したり発表したりしながら進めてもいいかなって。
今、見えている生徒の姿ですべてを見抜いたつもりになって、上限を線引きしてしまうような傲慢な教員だけにはなるまい。