こんな記事が溝上慎一先生のサイトに書いてあった。
自分は現代文を中心に、なおかつコースを丸抱えで担当しているので進度について悩まされることはあまりない。自分で比較的自由に生徒の実態に合わせて調整できるし、他教科に比べると「これを絶対にこなさないといけない」というような発想はほとんどない。
もちろん、読解のスキルを考えたり知識として教えるべきことを考えたりはしているけど、それでも他教科よりも悩むことはない。
さて、進度の問題はどう考えればいいのでしょう?
基礎・基本は網羅することではない
結論から言えば、溝上慎一先生も言及している通り、
網羅主義から脱却する
ことが一番重要なのだと思う。
「これを教えなければいけない」「これは知っておかなければいけない」「これをやらなければいけない」……などなど、結局、これは全て教える側が「何をするべきか」ということを握っていることが当然だという発想から出てくるものだ。
もちろん、学び方や何を学んだほうがいいかということについて大人が支援する役割は大きいと思うけれども、それでも根本的に学びの主導権は子どもにあってほしいと自分は思っている。
※このブログを書いていたら岩瀬直樹先生が「学びのコントローラー」という話を書いていらしてました。
子どもたちにも、自分のコントローラーを自分で持ってほしい。 他人に渡してほしくない。 だから、子どもの学びのコントローラーをぼくらが持ってちゃいけない。 ちゃんと持ち主に渡さなくちゃ。
ちょっと話がズレるけど、これを手放すだけで進度の問題は解決すると思うんだけどなぁ……。受験?受験だって必要ならやるでしょう?そもそも受験について学校がどれだけ役に立っているかは怪し(以下略
話を元に戻そう。
おそらく、アクティブ・ラーニングで進度の問題が気にされる理由としては、「基礎・基本」を教えきれないことに対する教員側の不安があろう。決して、子ども側の理由ではない気はする。
ただ、次期指導要領にも総則の中で「基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ」と述べられている以上、教える側もプレッシャーを感じざるを得ない。
しかし、この「基礎・基本」については、指導要領を目安としながらも、一体何を指しているのかは果たして不明だ。結局、入試とか経験則だとかに頼っている部分が多い。本当はこの「基礎・基本」も含めてカリキュラム・マネジメントなんだろうけどなかなか難しい。
心に留めておきたいことは、何度も繰り返すけど、必要以上に「網羅主義」に陥らないことだ。「網羅」しないと気が済まないのは大人側の都合なのだと。
結局、何を身に付けて欲しいのだろう?
自分が進度についてのんびりしてられるのは、やはり教えている科目の性質もある。だから、上のようなことを言ってしまうのは、社会だとか理科だとかだと事情は大きく変わるのかもしれない。
でも、やっぱり考えなければいけないことは二つだと思う。
一つは「基礎・基本」ってなんだろうとよく考えること。国語だってはっきりしていないことがいいことなのではなくて、危険なことなのかもしれない。はっきりしていないからこそ、色々な方面から勝手なことを言われる部分はあるんだし。
「基礎・基本」とは一体なにかということについて、きちんと説明できることは必要なことだろう。
もう一つは、むしろこっちのほうが大切なのだけど、それは「生徒にどうなってほしいのか」という教育観・授業観を鍛えなおすということなのだろう。
「授業でやらなければ生徒はできない」「基礎・基本を覚えさせたほうがよい」のような形だけアクティブ・ラーニングになりそうな発想を問い直さなければいけない。
まして、基礎基本を教えれば勝手に学ぶなんて乱暴な発想はダメだろう。基礎基本を覚えるのが重要なのではなく、学び方や学びに向かう力を持つことで、いったい、子どもがどんな大人になってほしいのかを問うということだ。
もうね、基礎基本を教えてやれば勝手に学ぶなんて物言いは、子どもを思い通りに動かしたいという価値観が透けて見えるのが嫌だし、一体、その学び方で何をできる大人になってほしいのかが見えてこないことに無責任さを感じる。
子どもを子どものままに、思い通りにしたいだけでは?それは。
さて、基礎基本とはなんでしょう。