ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

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枠を乗り越えて

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今年は『教育科学国語教育』に溝上慎一先生の連載が続いているので、ことあるたびにこのブログでも紹介している。

www.s-locarno.com

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今月号は「進学校」でのアクティブラーニングについての解説が載せられている。

教育科学 国語教育 2018年 09月号

教育科学 国語教育 2018年 09月号

 

個人的に思うところがあるので少し紹介しようと思う。

期待に応えてくれる

「進学校」と一括りにいっても、その内実はかなり差があるので、論じにくいところがある。今回は自分の勤務校の生徒の様子や紹介されている実践から考えていこうと思う。

今回、紹介されているのは大阪府の岸和田高校の実践である。実は実践の内容そのものは溝上先生のウェブページに掲載されている。また、実はこの連載記事とほぼ同内容な話が、「未来のマナビフェス」でもされていた。

smizok.net

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今回の実践に対しては、さすがに進学校ということもあり、コメントも高評価である。生徒は活動によく取り組み、協働における振る舞いも大人を驚かせるレベルだという。

このような「進学校」の生徒の能力の高さを、本連載では以下のように解説している。

進学校の授業を見学すると、一般的に生徒は教師の指示によく従い、美しい秩序が見られて感動することが多い。(中略)そもそも、進学校の生徒というのは、アウトサイドインによる適応力が高い傾向がある。アウトサイドインというのは、外側(アウトサイド)に準拠点があって、内(イン)なるものを外側に合わせる力学のことである。(P.116)

これはこれで非常に重要な能力であるのは間違いない。そもそも、ある程度、相手の期待を理解し、それに併せて自分の行動を調整していくことも、当然、人間関係を成り立たせていく上で必要なことだ。進学校ではない学校でアクティブラーニングなり探究的な学習なりで苦労する一因として、アウトサイドインの力の弱さがあるということは、本連載でも指摘されていることであり、授業をきちんと意味のあるものとして成り立たせるに当たっては、きちんと伸ばさなければいけない力であるのは間違いない。

適応力のベースが水準の高い生徒たちが見せてくれることには、やはり教員としては気持ちは揺さぶられる。授業の手応えもあるし、授業者も生徒もそれなりに満足度は高いだろう。

でも、それでいいの…?というのが、今回のテーマである。

深い学びを見取る力を

これだけ上手くやる岸和田高校の生徒の課題についての校長のコメントが、今回の連載では紹介されている。

熱心に学んでいるように見えても、板書を写すだけ、発問を聞き流すだけ…。自分の頭で考えていない受け身のままの生徒が一定数いる。心を揺さぶるような気づきや学びたいという欲求が刺激されずにいる。多くの生徒が、塾で敷かれた受験勉強のレールに乗っかって、疑うこともなく、与えられたものを右から左にこなしていくことが勉強と捉えている。(P.117)

自分が長を務める学校に対するコメントであるので、辛辣に見えるかもしれないが、裏を返せば、教員と生徒に対する期待度の高さでもある。アウトサイドインの適合力がある程度の水準になければ、ここまでの期待はできないだろうし、丁寧に前工程を整える必要もある。

先に紹介した溝上先生のページでも「外形的なアクティブラーニング型授業のポイントは十分押さえているので、最後は学習の質、深い学びへと突き進んでほしい」と述べられているように、最終段階の課題であることは確認しておきたい*1

だからこそ、質を上げるということの課題にこだわる必要がある。本連載では溝上先生は

自分の頭でものは考えているが、心の奥底からわきあがる実感を伴った考えや理解ではないのである。教師は、そのような具体的な内容の伴わない、抽象的な外化を見破らねばならない。(P.117)

と述べており、教員側の課題として述べられている。

これは教員としては永遠の課題だろう。今回の学習指導要領で「主体的・対話的で深い学び」がスローガンになっているが、「深い学び」とは何かということについての議論は尽きない。

まだまだ煮詰まり切っていない部分もあるので大いに議論すればよいだろうが、「深さ」に対する多様な見取りの軸をできるだけ早く教員は持たなければならないだろう。

日本の教員は真面目で、研究熱心である。不承不承、上から降りてきた「主体的・対話的で深い学び」にしてもアクティブラーニングにしても、もしくはそれとは別の軸で積み重ねられてきた「学習者中心」の授業にしても、多かれ少なかれ学校現場では実践として優れたものが提案されて、広まっていくだろう。

だからこそ、「形」が整っていくことが期待できるからこそ、それぞれの教室を抱える教員は、「深さ」を見取る軸を持つようになることが大きな課題になってくるのだろうと思う。まあ…そうなると深さってなんだよって堂々巡りになりやすいんだけど。

枠をふまえつつ枠を超える

ヒントとなる考え方が本連載に紹介されているので引用しよう。

進学校で求められるものは、教師の設定する枠(生徒全員にとって共通の学習目標)をふまえつつも、他方でその枠をどれだけ超えるかという個性的な学習にあると考えられる*2。(P.117)

これとよく似た議論は『日本語学』6月号で「主体的・対話的で深い学び」について藤森裕次先生の論考でも出てきている。

日本語学 2018年 06 月号 [雑誌]

日本語学 2018年 06 月号 [雑誌]

 

「深い学び」とは、新しい発想や個性的な感覚を用いて既存の知識や技能に新たな関係を見出し、想像力豊かに独創的な活動や作品を生み出す行為として理解される。ここで求められる重要な学びは、独りよがりで荒唐無稽な発想に堕することなく、既存の情報を用いて新しい関係を見出すことである。(P.11)

また、評価についても

「深い学び」の価値を認めるとき、我々は評価観そのものを変える必要がある。「重力」のような所与の基準で子供の学びを見るのではなく、限界のない学びに向かおうとする子供が、今、どのような成長の可能性をもって教室にいるのかという眼差しが求められるのである。(P.11)

と述べていることも示唆的である*3

教員として、何がこの先に準備できるのだろう。生徒に求めたい基礎としての枠を見極めつつ、枠に当てはめて勝手に限界に蓋をしてしまわないだけの余裕と見取りの技術を磨きたいところだ。

*1:とはいえ、「うちの生徒にできるはずがない」と挑戦させないことが望ましいとも言わないし、なんでも間かんでも基礎からでなければダメなのだという話でもない。その柔軟性は欠くべきではないだろう。

*2:個性的な学習とは課題への取り組みや問題解決を通して、個人が持つ既有知識や素朴な疑問、概念等と繋げて関連づけた深い学習にして、その意味での個性的な思考や理解を生み出すことを指している。P.117

*3:「経済産業省「未来の教室」と EdTech 研究会第1次提言」で「主体的・対話的で深い学び」が「50センチ革命×越境×試行錯誤」と説明され、具体的な行為が示されているのは参考になるように思う。その意味でも、経産省側がかなり文科省側に歩み寄っていこうとしているように思える。

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