昨日、Twitterで少し話題になっていた文法指導とそのほかの領域との関連の話を書いてみる。もちろん、本気で書き出すと自分の一番やりたいことなので簡単には書けない。だから、まあ、たまたま最近目にしたことをメモとして紹介しておく。
昨日のTwitterハイライト
昨日、話題にしていたのは以下の通り。きっかけは勘米良先生のツイート。
知ってのとおり、新学習指導要領で文法なんかの「言葉の特徴や使い方」に関する事項は、[知識及び技能]の中に入って、[思考力・判断力・表現力等]と関連しながら指導することになった。じゃあ[思考力・判断力・表現力等]を伸ばす[知識及び技能]って一体なんだ?
— KAMMERA Yuta (@mera85326) 2018年1月29日
たとえば、子どもの作文をいっしょに見ながら「ここが主語、ここが述語、おたがいの文が対応しないでねじれてるから、こうやって直すといいよ」と言ったとき、それは[思考力・判断力・表現力等]を伸ばしたといえるのか? 子どもの作文を使って[知識及び技能]をやっただけじゃないのか?
— KAMMERA Yuta (@mera85326) 2018年1月29日
たぶんだけど、戦後の機能文法における問題点の一つは「子どもの作文を使って」文法指導をするところまではいったけど、「子どもの作文を書く力を伸ばす」文法指導にはなっていなかったからじゃないか、と考えてる。「そんな文法指導が本当にあるのか」ってところからよくわからないけど。
— KAMMERA Yuta (@mera85326) 2018年1月29日
この検討をすると、ひょっとしたら「やっぱり文法は読む力、書く力につながらないじゃないか」「だからいらないじゃないか」という結論になるかもしれない。ただ「教科書に載ってるから文法を教える」という状態よりは幾分かよくなるんじゃないかという気もする。
— KAMMERA Yuta (@mera85326) 2018年1月29日
そしてそれに反応した自分を含めたツイート。
子供が実際に書くという文脈の中で文法面の指導を行った結果、子供が自分一人で書くときにもその指導が反映されるところまで行けば、単に知識を教えただけでなく、書いて表現する力につながったと言えるのでしょうか?
— あすこま (@askoma) 2018年1月29日
どうなんでしょう?いわゆる学校文法の用語や説明ではダメな気がする。また、書くことでの文法となると他教科との、特に英語だけど、文法用語の差は問題になりそうな気がするよ。レトリックと文法指導の差ってなんでしょう?それもまた自分にはよくわからず。
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年1月29日
今日のカンファランスで、「文章が単調で...」という生徒の文章の文末が全部「た」形で終わっていたので、「日本語では、過去の出来事でも目の前の出来事のように語りたい時には「る」形を使えるよ。そうすると文末も単調じゃなくなるよ」と説明したけど、今思うとあれは文法指導だったんだな。
— あすこま (@askoma) 2018年1月29日
なるほど。こうなるとモダリティやテンスの話でもあるし、レトリック的な話でもある。文法を内省させて考えてもらうというのは、メタ言語能力として大切なことですし、とてもよく分かる。 https://t.co/2BI2KzTUmQ
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年1月29日
文法指導は「文法を指導する」ことで、「文法知識を用いて文章を指導する」ことは含まないんじゃないかな?日本語業界だと文法ヲと文法デの違いで両者の区別にそこそこの共通理解があるけど国語はどうだろう? https://t.co/riCKba12IT
— OMI (@DirtyTeacher) 2018年1月29日
化学の知識を利用して掃除の指導をしたとしても、それは化学指導とは言わないよね!みたいな感じです。「文法見地からの文章指導」とか「文法的な文章指導」ということは言えるかもしれませんが「文法指導」とは違うんじゃないかな?と。
— OMI (@DirtyTeacher) 2018年1月29日
個人的には入れていいんじゃないかと思っているんですが、そのあたりをどういう風に位置づけていくかというのと、現実的に、学習指導要領との対応も説明できるようにするためにどうするか……といった感じで、まったくもって暗中模索です……
— KAMMERA Yuta (@mera85326) 2018年1月29日
RTs 個人的な見立てでは、国語教育での「文法指導」という領域は、「文法ヲ指導する」ではだめだよね、「文法デ(文章を)指導する」にならなきゃいけないよね、と言い続けて、結局「文法ヲ指導する」を抜け出せていない、というのが明治以来の歴史なのではないかと……
— KAMMERA Yuta (@mera85326) 2018年1月29日
ふわっとした言い方になるけど、文法という「形式」が作文や読解の「内容」に生きるような指導であれば、「文法デ指導した」ことにつながると思う。作文や読解の中ではどんな「形式」も扱うのはよくないという議論には、いったん反対したい。ふわっとしすぎてまだ何も言ってないのと同じだけど。
— KAMMERA Yuta (@mera85326) 2018年1月29日
文法を指導するの行き着く先は、古典文法のために中高で暗記させるくらいにしかならんからね。そもそも、学校文法の用語がやっぱり色々と問題を孕んでいたりするし。中途半端に日本語学のことを投げ込んでも無用に混乱させるだけだし。うん、困った。
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年1月29日
日本語教育と国語科での文法の範囲がやっぱり微妙に重ならない。いや、国語科で文法指導が何を指しているかが怪しいってのが大きいか。
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年1月29日
まとめてみてから、Togetterでやれと思いました。
個人的にふわっと思っていること
文法教育は何を担うのかということを考え出すと、平日に気軽に書けるものではないので、基本的に思っていることをちょうどTwitterにも書いたので引用しておくと
文法を使えば読解や表現の役に立つって方向で気をつけなきゃならないのが、あまり文法でなんでも分かるよ!みたいな説明のしかたをしたり、別に文法でなくても何と無くわかってるよ!ということなのにぐちゃぐちゃやりだすと、途端に胡散臭くなることだと個人的に思うのです。
— ロカルノ (@s_locarno) 2018年1月29日
ということである。
牽強付会にあらゆることを文法に結び付けて解説しようとしてしまうと、文法でやらなくてもいいことを担ってしまうことになり、結果的に文法でなくてもよいということになりかねない。
このあたりの考え方は伊坂淳一(2002)「文章」『日本語学』 21(5) (通号 249)の指摘を踏まえての考えである。
「読解に役に立つ文法」は、しばしば好んで使われるフレーズであるが(中略)「言語知識から読みへ」という流れは、むしろ逆転させる必要がある。(P.50)
だから、文法教育の価値を見直していきたいとは思うものの、安易に三領域に結び付けて何かができるということを主張することは避けたいと思っている。しかし、そうやって自重していると何も周りを説得できるようなことは言えなくなってしまうのが悩ましいところ。
参考資料の一つとして
そんなところに、ちょうど今月の『国語教育』で秋田大学の成田雅樹先生が「書くこと」の言語活動について「文種特性の省察を促す言語活動」という記事を書かれていたのが非常に面白かった。
内容としては指導要領に示された「言葉による見方・考え方」についての解説と、その「言葉による見方・考え方」を働かせるような言語活動として何が必要かということについて論じたものになっている。
そして、「書くこと」について、「推敲」や「文集の編集」など、省察(言葉への自覚)に関わる言語活動の重要性を指摘している。
上で引いた伊坂(2002)に近く、実際に言語活動をしてみて、その活動を振り返って文法を自覚していくという流れだ。
もちろん、直接的に文法について論じているわけではないのだが、言語に対する自覚という点を強調することが、文法教育にも近い部分も感じ、参考になると感じる。逆に言えば、最初の勘米良先生のツイートでの問題提起に戻ってきてしまい、堂々巡りになるような部分でもあるが……。
色々と自分の集めた論文とかひっくり返していたら2時間以上悩んでいたことになったので、今日はここまで。やっぱり、文法はブログに書くにはよくない。自分の時間が飛んでいく。