面談をたくさんやってから補習をやっているのです。
働き方改革ってなんだろう?(割と冗談にはならないで、強制退去させられかねないのだけど)
受験生は時間の許す限り勉強時間を取りたいのだけど、教える側がそれに付き合っていられないのもどうかと思うけれども、難しいところだなぁ…。
珍しく古典をやっていまして…
普段は現代文しか教えていないのですが、補習は古典をやっております。
まあ、自分が頭が悪くなりそうなので、せめて入試問題だけでも読んで解説する練習はしておこうというくらいの動機です。さすがに普段の授業を回すには、働き方改革と対立しそうなので、しばらくは苦しいかなぁ……。
まあ、そんなわけで入試の古典をちょぼちょぼとやっています。
久しぶりにやると思うけど、入試の古典は決して難解ではない。ただ、それなりに骨は折れるのでどれだけ面倒なことを引き受けられるのかという我慢強さは必要かなあと感じる。
我慢なのか……いや、古典のテクストから振り落とされないような「握力」というか、古典のテクストの没入できるだけの好奇心というか……、とりあえず、お皿に載せられて運ばれてきたから読んだ……では、なかなか苦痛な文字数と複雑さである気はする。
ちゃんと丁寧に読もうとすればするほど、知らなければいけないことは当然増える。まあ、入試問題を解くという意味での「丁寧に読む」に求められる知識はそれほど多いわけではないのですが、限られた科目の時間で学んでいる生徒には決して低いハードルではないだろう。
楽しくたくさん読めればそういう点もよくなるものかしら?少なくとも訓詁注釈をするだけで知識や興味がついてくるとは思えない。授業時間の量は増えないなら、読むスピードをあげるしかないだろう。ただ、いたずらに多読もできるものでもないし……難しいところだね。
もしかしたら、授業で全員がバラバラに好きなものを読んで、あとから色々と共有してみたりということも面白いのかもしれないが。
古典指導ということで比較的、手に入れやすい雑誌を紹介しておこう。
「文法を教えない古典」という話。この特集号では、文法の細々とした指導から入るのではなく、読んでいく上で問いとして文法への興味を持つことや現代語訳を用いて古典を読んでいくことなどが紹介されている。
鳴島先生の巻頭言が高校の古典の問題点を凝縮した提言になっているわけです。古典嫌いを量産するような授業がもう何度も、何年も繰り返されているのに、なかなか改善されていかないのは難しいところです。自分は教えていないのでえらそうなこと言えないけど。
でも、この手の問題で割と苦々しく思うのが、専門家ではない教員などの方が「正しく読めなければな意味がない」というような不寛容な態度を取る人をたびたび見ることだ。
もう少し、入り口に関しては寛容的でいいとは思うのだけど……。むろん、教える側が不勉強でいいという話ではない。
和歌を少しずつ読み解いて
生徒にとって和歌は難しい。
読んでいる数が足りていないのがそもそも大きな原因であるけど、簡単に数を増やせば分かるというものでもない。そして、全員がそうやって和歌を理解することに時間を投資することが妥当とも考えづらい時代である。
せめて、教える側が「面白さ」を凝縮して、触れてもらう必要はあるのだろうと思う。
そんな時、個人的に一番、高校生の感覚につなげやすい本はやはりこの一冊だと思う。
【過去記事】
ここまで凝縮して和歌の感覚を生徒に分かりやすく伝えられる表現の本はなかなか自分は見つけられていない。まあ、同じく渡辺先生の
が、見た目のお手軽さに見せかけて、比較的、容赦なく殴りかかってきているのは、面白くて役に立つ本なのですが、まあ、ちょっと分厚い。
高校生に進めるにはちょっと重いけど、自分のような古典の素人が授業をする前に読むのであれば次の本が自分には参考になっています。
「ことば」の重なりや揺らぎを丁寧に読み解くことで、解釈が豊かになることを示している一冊で、何を和歌の学習の奥深さで生徒に伝えるべきかの吟味のスタート地点としていつも自分は読み直しています。ご専門が江戸だけに、俳句や狂歌も豊富に出てくるのも中古に偏りがちな高校の授業(入試に出やすいから授業で偏って取り上げられやすい)の相対化という意味でも考えさせられます。
「ことば」自体に重なりや揺らぎがあることが面白いのだけど、そのあいまいさともいえるような深さは生徒には厄介な「泥沼」にも見えるのかもしれない。受験生は答えが欲しくなるものですから。
ま…しばらくは教えられないのですが
おそらく、今の勤務校にいる限り、自分は古典を教えるチャンスは相対的に相当低いと思われます。
たまにやるくらいで楽しくやれたほうが、自分のメンタルにはよいのかもしれないけど……でも、自分は国語の先生であって、現代文の先生ではないんだよね。