ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

【書評】気の合う仲間とだけではなく

We have met the enemy

Twitterで紹介されていて思わず購入してしまった一冊です。

敵とのコラボレーション――賛同できない人、好きではない人、信頼できない人と協働する方法

敵とのコラボレーション――賛同できない人、好きではない人、信頼できない人と協働する方法

 

なかなか難しいことをおっしゃる……。

つい、自分でやってしまったほうがラクだし、話が合わないならさっさと無視したほうがラクである。

しかし、時には気の合う仲間だけでは成し遂げられないことがある。そんな時に、どのように折り合いをつけて仕事をしていけばよいのでしょう。

従来型のコラボレーションとストレッチ・コラボレーション

本書の第一の特徴は、副題にもあるとおりいかに賛同できない、好きではない、信頼できない人たちと協働するかを提起することです。同僚、同志、仲間との共同は数多くありますが、そうでない人たちとはそもそも協働や対話の席につくことも難しいものです。(P.188)

協働はいいもの、協働できない方が悪いというような同調圧力が強くなりつつある今日この頃、そもそも協働が難しいという状況が数多くあることを忘れがちである。

それは本書で出てくるような「政府VS革命軍」のような大仰なものでなくとも、普通のクラスメートとの関係や友人関係であっても敵対関係に陥ることがある。敵対することを望んでいなくても些細なことから敵対に向かってしまったり……。敵対関係を乗り越えていくことの方法を知ることは、日々の生活において意味のあることだろう。

本書では、コラボレーションの方法について、敵対関係で行き詰りやすい「従来型のコラボレーション」と、敵対関係を乗り越えて敵とまでもコラボレーションをするあり方を「ストレッチ・コラボレーション」と呼び、以下のように区別している。

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「従来型のコラボレーション」に対して、本書では「窮屈」であり「時代遅れ」としている。そのようにして「従来型のコラボレーション」に疑いのまなざしを向けることによって、自分たちが陥りがちなワナを明確にし、新しいコラボレーションの方法を「ストレッチ・コラボレーション」として提案しているのである。

従来型のコラボレーションの限界

従来型の問題点とは何か。

それは以下のような記述を読むと、よく理解できるのではないだろうか。

この上位の者が下位の者を変えるという根本的に階層性に根差した前提は、誰をも自己防衛に走らせてしまう。人は変化が嫌いなのではなく、変化させられるのが嫌いなのだ。(P.67)

コラボレーションの困難は、一つの正しい答えがあるという前提をもつことから始まる。正しい答えを知っていると確信していると、他者の答えを受け入れる余地がほとんどなくなってしまうので、協力するのがいっそう難しくなる。(中略)たいていの関係者のほとんどが今の状況の真実を知っていると確信している。こっちが正しく、あっちは間違っている。こっちは無実、あっちは有罪。あっちが聞く耳をもって、こっちに同意しないかぎり、状況は修正されない、という次第だ。(P.72-73)

いやはや……耳の痛い限りだ。

こんな問題点があるのに、なぜ従来型のコラボレーションを採用してしまうのか。本書では以下のように述べられている。

対処している状況は単純でコントロール可能だ、よって従来型コラボレーションが当てはまると誤って仮定すると厄介なことになる。慣れていて、安心感がるから、うまくいくと知っているからという理由で、従来型のコラボレーションを採用してしまうような場合だ。(中略)「厄介なことになるのは知らないからじゃない。本当は知らないのに、知っていると思い込んでいるからだ」。まさにこの名言のとおりだ。(P.78)

重ねて、耳が痛い話である。

しかし、思ってみるとこの手の思い込みは学校においては数多く存在する。どうしても、上述の一連の記述を見ていると、「生徒指導=生徒を雁字搦めにすること」という発想で行われる指導の在り方を思い出すのである。

別に生徒は敵ではない。しかし、教員側がガチガチに管理に走ることで、生徒を敵化してしまっているように思えるのである。

もちろん、生徒指導は単純な話ではないけどね。「管理可能」という発想が制度疲労を起こしているという認識で、次の手を考えるくらいの考え方です。

むしろ、深刻なのは「生徒の指導」をめぐって教員同士が異なる「真実を知っている」というつもりになって、敵対関係に陥ることである。教員で「悪くしてやろう」という意図で何かする人は少ないが、敵対してあれもこれもとなるうちに何だかよく分からないキメラが出来上がっているのが学校である。

ストレッチ・コラボレーションを目指して

ストレッチは柔軟性をもたらすが、快適ではない(P.81)

本書が提案する「敵とのコラボレーション」の方法が、ストレッチ・コラボレーションである。

このストレッチ・コラボレーションという概念は以下の三つの要素からなる(PP.92-94)。

  1. 協働する相手との関わり方。チーム内に存在する対立とつながりに関する先入観を捨て、受け入れ、対処する。
  2. チームでの取り組みの進め方。結果は予測不能である以上、多くの考え方や可能性を実験してみなければならない。
  3. 対処しようとしている状況に自分自身がどう関与するか、つまりどんな役割を果たすか。他者のコントロールが不可能であることを受け入れ、自分自身が行動を変えることへの抵抗を捨てる。

上に引用したように「柔軟性」を実現するものであるが、決して「快適な」ものではない。誰だって自分の「正しさ」は信じていたいし、自分の慣れ親しんだものを捨てるのは難しい。

自分が何かを柔軟に変えたところで相手がそうしてくれるかは分からないのであり、囚人のジレンマよろしく自分の方が態度を硬化させてしまう。自分の態度を硬化させないためのストレッチであるが、……快適ではなかろう。

本書ではその不快で難しいストレッチのための方法を三章にわたって解説している。

このストレッチの方法においては、決してマインドセットだけを問題とするような根性論ではない。関わり方として「愛」と「力」の両面を使うことや、自分が起こっている事態に参加者として関わることなどを述べている。

一つ一つが即座に行動可能であり、なおかつ効果的な提案である。

本書を最後まで読んだ際には、読者に行動するかどうかの選択が委ねられているのである。

目標は、非の打ちどころのないコラボレーションをすることではなく――社会活動では、そんなことは不可能だろう――自分のしていること、自分が及ぼしている影響への自覚を高め、より迅速に行動修正し、学べるようになることだ。そうすれば、無意識の無能から有意識の無能へ、有意識の能力から無意識の能力へ移行できるだろう。(P.180)

ストレッチ・コラボレーションでは、異質な他者から遠ざかるのではなく、そういう人に向かっていくことが求められる。(中略)そう、敵は最大の師になりうるのだ。(P.181)

ぜひ、自分が必要となる場所で、敵とのコラボレーションに向かえるような手札を持っておきたい。

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