本日は行事の振替休日で休み。自分は朝からジムでトレーニング。トレーニング後はひたすら昼寝。よい休日である。すっかり本を読まない生活になっている。
そんな自堕落な生活のところに、教育実習中のかつての教え子からの相談を受ける。
そうか、九月とはそんな時期である。
上手く行かないことからスタートして
この時期の相談は決まっている。授業が上手く行かない、である。
教科が違うものを何も助言してやれないが、教科が違っても実習生の授業が上手く行かないということくらいは予想ができる。そりゃあ、授業の経験値が片手で数えられるくらいしかない学生と、年間に数えるのを諦めるくらいには授業をする教員の差はどうやっても埋まらない。同じようなことをしようとすれば、目に見えて路頭に迷うのである。
実習に向けて、自分なりに「こんな授業をしよう」とか「こういうことを上手くやろう」と目論んで準備してくるのだが、まあ……それでうまくいかないのが授業である。
そこからが実習の踏ん張りどころである。授業が自分の思ったように上手く行かないことの原因を考えて、授業をどうするのかを必死に考えて、追われるように色々な本を読んだり資料を用意したりすることで、授業づくりが分かってくることもある。
実習生の準備してきたものが上手く行かない原因の大半は、実際に相手にする子どもたちのイメージがないからである。どんなことに興味がある子どもたちなのか、どんなことが得意な子どもたちなのか、どんな問題を抱えている生徒なのか……そういうことは人から情報をもらうだけではなかなか分からないし、自分の体験として理解しないと、授業にはいかせないものである。
逆に、授業が上手く行ったつもりで悩まないままで終わるようだと、よほど技量に優れているか、子どもたちの様子を見る気がないかのか、はたまた指導教員がフォローしてくれているのか……まあ、自己評価は厳しく考えたほうがよいでしょう。
授業づくりは子どもを見ることから
教科や校種が違うと何とも言えないけど、授業づくりの根本は、子どものことをよく見て、よく知ることからであると思っている。
確かに実習で板書の作法を覚えたり、立ち振る舞いを覚えたりすることは大切なことであるのだけど、そこの練習に終始してしまい、模擬授業の練習にこもりきりになっていると、おそらく授業は上手く行かないでますます焦って追い詰められて模擬授業する……というような悪循環に陥りそうである。
もちろん、そういう技術がないと教壇の上でオロオロとしてしまうので、それはそれでないと子どもはついてこない。でも、それ以上に大切にしておきたいのが、子どもをよく見るということである。
よく見る…と簡単にいうが、これをどう表現するかはちょっと難しい。人によって見るポイントはおそらく違っていると思うし、見えてくるものに違いがある。何を見るかは割と授業観とセットになっていることである。人間関係に重点を置いてみることもあれば、普段の生活の中の表現の様子や興味関心を見ることもある。
何を見るのか、どう見るのか……。考えてみても難しい。
自分が授業を作るのであれば、長い時間を生徒と過ごしているので、多くの情報を得ることが出来ているが、飛び込みでやってきて数週間で帰ってしまう実習生が何を見るべきかということは、今、答えようはない。
ただ、スパルタなことをいうのであれば、子どもたちが教室にいる時間には子どもたちとずっと一緒にいて、そこで起こっていることの全てを、全てが無理ならば目に入ってきたことの全てを記憶(記録ではない!)することを目指して、必死に色々と考えながら様子を見てみることではないかなぁと思う。
まだ、抽象的か。しかし、あまり踏み込んでも、自分の授業づくりの観点になってしまい、実習生のための観点にはなりにくいだろう。
まさに実習で「観」を鍛えることが必要なのだ。そんな教育実習だからこそ、先達の実績は役に立つのだと、実感するきっかけにもなりうる。
こういう本で偉大な先達の実践家が何を見ていたかということのエッセンスがまとめられているが、こういう蓄積から実践の観点を手探りで見つけられていけば、よい実習になるのではないかな。
ずっと悩み続けています
授業が上手く行かない、何をやったらいいか分からない、そんな悩みは教員である限りずっとついて回るのです。
ただ授業の回数が多いから、失敗してもリカバリーできるくらいには仕事に就けばできるようになるのです。でも、本質的には授業を作ることはしんどい。何度も失敗を繰り返して、時々、意味のあることができるくらいの感覚である。
日々、研究と実践で勝負していくのである。