ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

じっくりと話せない

学期末に向けて全力失踪中…間違った全力疾走中です。

作業ではないんだってば…

成績処理に取り組んでいるが、「処理」という言葉遣いがよくない。

成績を機械的に輪切りにしていって、順位を付けるという作業になっているような気がする。正直、その程度の話で良いならば、関数を組んでポチポチと適当な数字を入れ込むだけで良いのである。

数が多くて大変だということも分かるのだが、単に数字の集積としてだけ成績づけを処理するならば、それは作業である。全くクリエイティブでもない。

しかし、本来は成績は生徒へのフィードバックとして機能させるべきもので、ゴールとして終わりにしてはあまり意味が無い。

総括的評価と形成的評価の違いが……なんて言う気は無いけど、もう少し生徒の成長に関心を持った形での成績の話はしたいと感じる。

単に評定を付けるということであれば、普段から生徒の言語活動のパフォーマンスを見て、定期的に形成的評価を繰り返していれば、評定として総括することは普段の総体として付ければよいだけなのでそれほど面倒なことではない……はずなのに、「考査の点数」を不当に重く付けろという話になってくると、ややこしくなる。

考査をパフォーマンス課題のように作れば……という話もあるのだけど、パフォーマンス課題としてしっかりと評価しようと思うなら、試行錯誤できるような時間を与えたいと思うのである。

試行錯誤をする余裕もない中での、パフォーマンスは知識や技能の問題であって、本来は本当に「思考力」等なのかは疑問である。普段から生徒の活動を見ていれば、どこに成長の瞬間があるかと把握し、その成長の度合いをしっかりと見ようとすれば、自然と観点別は……と思うが、その質的な見取りを量の基準で他の担当者とすり合わせていくことがかなり困難なのだ。

言うほど考査も公平か…?

考査の点数を重視することを「公平性だ」という言説はよく聞く。

しかしながら、考査の問題として何を出すか、どのように問うか、なぜその問題を出すのかということは、突き詰めていけば主観に過ぎない。

自分で作らないでどこかから問題を持ってこようと、あるタイミングである問題を使うことは、結局、考査を作る人間の主観でしかない。授業の様子を見て適切なレベルを選んでいると。

教科書会社の問題や入試問題が、その時期の生徒に適切だということを見取ることが出来るのであれば、生徒に言語活動を取り組ませても問題なく、それぞれの生徒の成果が見取れるのではないか?と思う。

一番、厳しく見なければならないのは、教えたことを再現させるような問題である。「努力すれば結果が出ると分からせるのが大切だ」という意見をよく言われるが、それは努力の方向を間違っているのである。

教えた解釈を再現させる努力でどのような力が付くのか?

もちろん、覚えなければいけないことがあるが、それは果たして「読解問題」という文脈で試すべきなのか……批判的に見ざるを得ない。

ちゃんと議論を

時間が無い、やることが多いということも分かるのだが、生徒の授業での姿をどのように見取って、どのように評価するということは教育の根幹だろうと思う。評価に対して自信を持って議論するという手間は惜しむべきではないだろう。

決して、ベネッセの模擬試験が教育の成果だとしてはならないのだ。

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