ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

成績をつけるために…

7月と言えば成績処理の時期ですね。

今年度から高校でも観点別評価となるため、今年の成績処理の準備の始まりは早めです。

余談だが…

成績とは直接関係するようなしないような感じではあるが、この時期に触れねばならないのが出欠に関してである。

今年度もやはり相も変わらず、濃厚接触者であったり風邪症状であったり副反応であったりと様々な形での出席停止などが頻発している。そのため、手書きの出席簿は見るに堪えないレベルでグチャグチャである。

…正直、訂正印を押すから余計に見づらいわけで、もう紙の出席簿は止めた方が良いんじゃないか?と思うのですが、出席簿は紙でなければ行けないという法律はあるのかしらん?

高校での出欠は卒業要件に深く関わるので、かなり慎重に処理しなければならないのだが……手書きの弊害がもろに出ている気がしてならない。

成績処理が作業になっていないか

今年度から始まった観点別評価、正直、とてつもなく面倒になっている。

 

 

まあ…どうすれば負担が減るのかという理屈や何を評価するべきかという理屈はそこそこ分かっているつもりなのだが……色々な本に出てくるような呑気で余裕のある評価の運営なんて不可能である。

 

 

理屈通りに行かない最たるものが出欠に関わることである。生徒が必ずしも評価の場面に教室にいるとも限らない。一つはもちろんコロナ禍の影響。もう一つはコロナが終わっても平日に大会をする部活が後を絶たない限り、予定調和の評価計画なんて実現がほぼ無理である。

授業での評価の場面ではなく、宿題の課題のパフォーマンスを見る……という方法もないわけではないが、それはもはや授業の評価なのか?

一般的に議論される評価の話が、普通に毎日健康に学校に通ってきて皆勤賞を取る子どものことだけを考えているんじゃないかと思うことは多々ある。

結果的に、理想と現実の落とし所を探っていくと、機械的な処理、演算での処理となってしまいがちなのである。

ここでは「評価」と「評定」を区別しない書き方になってしまっているが、現実問題として、生徒への強いフィードバックとして機能する「評価」は学期末、年度末の「評定」という事実もあるし、「評定」が生徒の進路の生殺与奪を握っている部分もあるので……話がややこしい。

生徒が評価から学ぶようになるためには

かなり暗澹たる気持ちになって成績処理を進めているが、評定以外の評価を生徒がちゃんと気にして活かすことが出来るようになるためには、何が必要になるのだろうか。

自家撞着した言い方になるが、評価から学んで自己調整を生徒ができるようになるためには、評価をして生徒に自己調整にチャレンジさせ、それをまた評価する…という評価をひたすら繰り返していくしかないのである。

その意味では、観点別評価を考査や学期末にだけ返すというやり方では何か生徒の成長に寄与させることは難しいだろうと思う。本気で生徒の成長を考えるのであれば、一人一人に対して適切な評価をもっと高頻度で戻していかなければならないだろう。

しかし、それにしては、受け持つ生徒の数が多すぎるのだ。

200人を教えるとして、学期に3回パフォーマンス課題を出して、評価を戻していたら600回である。そこに考査が2回が加われば、1000回も評価を回さなければいけない。

そんな莫大な数を目の前にしたら……作業にならざるえなくなる。

それになぁ……考査の比重が重すぎて、そちらに目を奪われてしまう。考査の比重によっては、いくら一生懸命に真正の課題に取り組んでもらっても、配点が10点とかになってしまうと……。

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