行事の準備が進んでいる。
ほぼコロナ禍前に戻した形での運営ができるようになった行事なので、生徒も久々にはつらつとしているような気がする。
行事で仲間たちとあれこれと苦労している様子を見ていると、行事に乗り気になれないタイプの教員ではあるけど、子どもたちどうして上手くやっていくことの意義は感じる。
色々と慌ただしい様子が、きっとよい思い出になるのだろうなと。
行事を無事に終わるために
勢いで行事を終えていた経験の浅い頃に比べて、今は「事故を起こさない」ということにかなり神経を使うようになった。
「事故」は大小に関係なく、やっぱり思い出に汚点を残してしまう。どんなに小さくてもちょっとだけ心残りができてしまうものである。
「事故」の種類も物理的にけがをするようなことだけではなく、ちょっとした人間関係のトラブルも禍根になる。上手くいかないでイライラしたり喧嘩したりするのは構わないけど、最後にちゃんと手打ちにならないで行事が終わってしまうと、小さな行き違いでもやっぱり厳しい。
「事故」のない教室でありたいと願う気持ちが強くなった。それは、年令を重ねて冒険できなくなったということでもあるのだろうか。
安全の環境のために
トラブルの起こりやすい時期であるが、安心して過ごせるような場所であるために何が必要だろうか。
それはやはり子ども同士が「なんとなくお互いに居場所がある」という感覚を持てているかということなのではないだろうかと思うのである。
なんとなく「今、ここでこうすればいい」という感覚があれば、少し脱線しても戻ってこられるし、誰かと揉めても折り合いの付け所は見つかる。また、上手く乗れない人がいても、誰かがその気持に付き合ってくれるのだろうと思う。
大人は子どもたちの行事に対して傍観者である。当事者にしか見えないものはある。
当事者同士の関係の網の中にしかわからないものがあるからこそ、お互いの関係が成長するのである。だからこそ、色々、難しい。
そういう難しさがあるとしても、力まずに、緩やかに、したたかに、なんとなくここにいていいという感覚を捕まえられるようになって欲しい。