学年をまたいで授業を受け持つことが多い。
そのため、毎年、この時期になると高校の国語とはどういうことなのかという話をしている気がする。
ただ、こうやって毎年、学年の跨いで指導を行っていると、子どもたちの一年の成長というものが自分が思っている以上に非常に大きなものだということに気づけるので面白いと思っている。
国語の成長は微速ながら
国語の学力の成長というものはなかなか目に見えては分かりにくい。数学のように新しい概念を押さえればすぐに何かが計算できるというものでもないし、英語のようにすぐに会話練習ができるような感じでもない。
ただ、なんとなく話が進んでいるような、分かっているような…そういうイマイチ進み具合が分からないところを繰り返して行くのが国語という教科の特徴である。
とても成長を実感するのは難しいし、「〇〇ができるようになりました」という振り返りを繰り返すのも白々しいのである。
それでも少しずつ変化していくから、そういう変化を期待して毎日の授業を地道に繰り返すのである。
比べてみると明らかに
そうやって地味な変化しかない国語の授業であるけれども、この時期に新しく新高一を迎え入れて授業をやってみると、明らかに生徒の成長には大きな差があるのである。
三年間、教えてきた生徒の考えていることの深さや広さに比べて、やっぱり新入生はかわいらしいものがある。
三年生と一年生を比べてみると、明らかに考えがしっかりとしているし、言葉を使う姿が頼もしい。何気ない話し合いの仕方を見ても、自分で自分のことを振り返って考えている姿を見て、実に高度なことをやれるようになっていると思う。
持っている読んだり話したり考えたりすることに対する方略の数が段違いなのだと思う。
サッと要約を書いたり、図にまとめたり誰かに説明したり…色々なことを自然に使いこなせるのはやっぱり三年生である。
そういう差を見て成長を実感できるのは、毎年、色々な学年を持っている特権だろうとなと思う。