ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

牛歩で進みながら

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複数の学年をまたがって指導していると、生徒の変化や発達段階の違いを見て取れるので、苦労は多いのだがよい修行になる。

三年間を見通す

本来、その生徒が三年間でどのような姿に成長してくれるのかということを期待して、逆算しながら日々の授業を考えるものである。

ただ、現実問題として人事の都合があるから、自分がいくら三年間の持ち上がりを期待して授業計画を考えても、教えられる生徒には限りがあるし、仮に持ち上がったとしても自分だけで全クラスを教えられるとは限らない。

結局、自分で責任を持てる範囲にならないところは、長期計画よりも今ここで隣の人と矛盾が出ないように慎重に授業を進めていくことになる。

長期的な展望を持ちながらも、今の目の前にある明日の授業の方が問題になる…という感覚はなかなかもどかしいものがある。しかし、そうやってチームワークで授業していくのも教員の仕事である。

だからこそ、自分が三年間を持つことだけを待つのではなく、自分が複数の学年を跨いで持つことは大きな勉強になると考えたい。

どのクラスを持つかということは、それこそ人事で運次第な部分も大きいが、チャンスがあれば複数の学年にまたがって持つということに挑戦することはよいことだと思う。

その月々に、どのような姿に生徒が育てば良いのかということが、複数の学年を跨いで指導していると分かりやすい。高一の授業ではこういうことを教えているが、それが一年後の授業ではこういう形でちゃんと成長していく……。そういう見通しに自信を持てることに意味があるだろうと思う。

経験年数が長くなれば、それだけその感覚に磨きがかかってくることだろうと思うが、思いこみではなく、今、目の前にいる生徒の実態を見ることが重要だ。

成長は牛歩だ

日々の授業の様子を見ていると、生徒の至らない点ばかり目に付く。とりあえず、提出物がちゃんと一発で揃うことだって稀なので、腹の立つことの方が多いわ!

なんだか仕掛けた授業が上手く機能していないのではないかという、疑心暗鬼に日々囚われながら、色々な手立てと素材を探すことに躍起になるのである。

三年間をやりきって、新しく新入生を迎えるときに、「ああ…これだけ育っていたのか」と思うのが常なのであるが、学年を跨いで指導すると生徒の変化が一瞬で分かるのだ。

特に、毎年、新入生を教えられると、年々、生徒の気質や興味関心が変化していくことが分かる。同じ授業を漫然と繰り返していたら、そりゃあ、だんだんと合わなくなるだろうという実感が沸く。

生徒の成長は牛歩だ。

そして、教えたことはきちんと育つし、教えないことはいつまでもできないままである。授業で何を生徒に向けるのかということの責任はとても大きいのだ。

教えることの責任を軽く見る教員はいないと思うが、教えたことがどう結実するのかということまで確信が持てる人は多くはないだろう。日々、手探り。

だんだん慣れてきてしまうと、自分が教えてどう育っていくということよりも、教えることの方に終始してしまう傾向にあるように感じる。それくらいには忙しいのが現場である。

授業の一回の重さを思い出したい下半期である。

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