ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

不登校とICTの話として

文科省が4月9日に、不登校の児童生徒の出席扱い・成績評価に関するリーフレットを公開した、というニュースを目にした。

www.kknews.co.jp

学校外の施設で相談・指導を受けている場合や、自宅でICT等を活用した学習活動を行っている場合に、一定の要件を満たせば学校が出席扱いや成績評価を行えるという制度について、「学校・教育委員会等向け」と「保護者等向け」の二種類にわかりやすくまとめたものらしい。

www.mext.go.jp

制度は「前からあった」はずなのだ

この制度自体は決して新しいものではない。

たしか令和元年あたりにも関連する通知が出ていたはずだ。……と書きつつ、正確な文書名や発出年月日を手元ですぐに確認できているわけではないので、そこは「たぶん」と留保しておく。

いずれにせよ、数年前から仕組みとしては存在しているのに、現場にいて「実効性を持って運用されている」という話があまり聞こえてこない、というのが正直な感覚なのである。

もちろん、まったく運用されていないわけではない。

COCOLOプラン関連の資料などを眺めると、コロナ禍の影響もあってか、ICT等を活用した学習活動による出席扱いの事例は確実に積み上がってきている。資料には令和三年度には、小学校で四千件台、中学校では六千件台くらいの事例があったと書かれている。

ただ、数字としてはそれだけの件数があるにもかかわらず、教員同士の会話の中で「うちではこんなふうに使ったよ」という話が共有知として流通している感覚は、自分の観測範囲ではあまりない。

件数の多さと現場感覚のあいだに、妙なギャップがあるのだ。まあ…表だってなかなか話せる話ではないからかもしれないけど。

高等学校について

気になっているのは、高校段階の扱いである。今回のリーフレットも、義務教育段階についてはそれなりに明示的に書かれているようだが、高等学校の運用についてはどうなっているのか、自分にはよく見えない。

高校は単位制の建付けの上に乗っているから、出席日数や授業時数のカウントの仕方が小中学校とは根本的に違う。

ICT等による学習活動を「出席扱い」に読み替えるためのロジックも、義務教育とは別に設計しないと無理がある。……のだろうと思うのだけれど、ではどう運用されているのか、と問われると自分も具体的には答えられない。

学校ごとの判断に委ねられていて、実際にはほとんど認められていない学校の方が多いのではないか、という印象はある。ただ、ここは憶測で断言したくないので、「自分にはよく見えていない」とはっきりと宣言しておきます。

それもなあ…いいのかなあ…と思ったりもする。

義務教育段階の話に限って

高校のことは一旦脇に置こう。

義務教育段階に絞ったうえで、今回のリーフレットに対して思うところを少し書いておきたい。

自分が一番大事だと思うのは、制度があることそれ自体よりも、制度があるという事実が、保護者と学校にちゃんと情報として届いているかどうかだ。

知られていなければ、あってもないのと同じになる。知らないから申請もされず、申請されないから事例も蓄積されず、事例が蓄積されないから共有知にもならない……という、地味だが厄介な悪循環は断ち切れた方が良いよね。

だからこそ、今回のようにパッと見で全体像を把握できるリーフレットが作られたことは前向きなことだと思う。通知文をそのまま現場の教員や保護者に読めと言っても、現実的にはなかなか難しい。

二種類に分けて、対象者ごとに整理してくれているのも親切な設計だと思う。

引け目を少しでも軽く

不登校という状態を、本人や保護者がどこまで「負い目」として背負わずに済むか。そこは、制度の設計と運用によって少なからず変わってくる部分だと思っている。

出席として認められる、成績として評価される、という事実がひとつあるだけで、救われる家庭はきっとそれなりにあるように思う。

学校に物理的に通えないことが、そのまま学びから切り離されることを意味しない。その回路を制度として確保しておくこと自体に、価値がある。

あとは、今回のリーフレットが、本当に必要としている人のところまで届くかどうか、なのだろうと思う。

夢と簡単に言うけれど

13日から始まるフジテレビの新ドラマ「サバ缶、宇宙へ行く」と、文部科学省がタイアップしているのだという。

www.fnn.jp

記事によれば、文科省はこのドラマと組んで「『夢』が『夢』で終わらない場所。それが、専門高校」というキャッチコピーのポスターを作り、全国の中学校に掲示する予定らしい。

松本文科相も会見で「専門高校の役割は益々重要になっている」と語っていて、ドラマを通じて専門高校の学びの魅力を中学生やその保護者に届けたい、という狙いのようだ。

ドラマの舞台は、福井県小浜市の若狭高校。かつての小浜水産高校である。

サバ缶が宇宙に行ったという、本当にあった話

このサバ缶プロジェクト、実話としてもう本当にすごい話なので、「探究」に関わる人には全員に知っておいてほしいと自分は思っている。「探究学習」という言葉が学習指導要領に書き込まれて一般化するよりずっと前から、当時の担当の先生と生徒たちが、何年もかけて粘り強く取り組み続けた。その結果として、最終的にサバ缶が本当に宇宙に飛んでいったのである。

書籍にもまとまっているし、昨年は「プロジェクトX」でも取り上げられていた。自分も放送を見ながら、「学ぶってこういうことだよなぁ…」と何度も唸った。

www.nhk-ondemand.jp

テンプレ化された探究の枠に収まる話ではなく、地域と生徒と教員のもがきの中から立ち上がってきた学びだ。

ドラマがどう描くかは分からないけれど、現実の重みは相当なものだと思う。

普通科の役割が、揺らいでいる

ここから少し話を広げたい。文科省がわざわざ専門高校の魅力をPRしないといけない、というそのこと自体に、いまの高校教育の事情がある。

少子化の中で、公立高校の普通科はかなり苦しい状況に置かれている。

トップの進学校と呼ばれる学校でさえ、倍率がかなり厳しい都道府県が増えてきた。県立の普通科というのは、身も蓋もない言い方をすると、有名大学に進学する生徒を囲い込む装置として機能してきた学校が中心である。

良い大学に行くための場所、という期待が、社会からも保護者からも大きかった。ところが私学との競争もあって、その装置がうまく回らなくなってきている。

そこで、公立普通科の役割って結局なんなんだ……という議論が、ここ数年いろんな場所でくすぶっている。

普通科の魅力をどう作り直すかという問いは、簡単には答えが出ない。そして逆説的に、「むしろ専門学科のほうに、これからの社会のニーズが眠っているんじゃないか」という声も、静かに広がってきている。

子どもが減って、世の中全体で人手が足りなくなっている時代だからこそ、自分のやりたいことを深掘りできる専門高校の学びに、改めて目が向けられているのだ。

今回のタイアップも、その流れの中に置いてみると、また見え方が変わってくるだろうと思う。

偏差値の物差しは、そう簡単には消えないけれど

まあ、とはいえ、保護者世代の感覚で、偏差値という軸を完全に無視するのは、現実的にはなかなか難しい。

自分も進路指導の場面で、その力学の強さは毎年のように感じている。数字は分かりやすいし、分かりやすいものは強い……。

それでも、サバ缶が宇宙に飛んでいくような学びがドラマとして可視化されて、ポスターとして全国の中学校に貼り出される。

それ自体は価値観の変化が少しずつ始まっていることなのだと思う。「夢が夢で終わらない場所」というコピーが、どこまで中学生や保護者に届くかは分からない。

届かないかもしれない。

でも、偏差値以外の軸で自分の進路を選んでいい、と思える子どもがほんの少しでも増えるなら、こういうタイアップも悪くないと思うのである。

デジタル教科書の不安は…

リシードの記事を読んだ。

reseed.resemom.jp

ネットを眺めていると、デジタル教科書の話題でかなり盛り上がっている。否定的な意見が目立つ。ただ、議論の中身を追っていくと、デジタル教科書そのもののイメージを正確に持てている人がそんなに多くないんじゃないか、という気がしてくる。だからどうも空中戦になる。

自分自身、よく分かっていない

正直に書くけれど、自分もデジタル教科書がどういうものか、正確に理解できているかと言われると、まったく自信がない。

ただのPDFを配るのとも違うし、紙の教科書にQRコードがついて動画が流れる、みたいなものとも違う。実物を触ってみないと、どうにもイメージしづらいのである。

ルールの話も把握しなきゃいけない要素が多すぎて全部追えていない。

なかでも義務教育で大きいのは、教科書がそもそも無償配布されているという一点だろうと思う。デジタル教科書も正式な教科書として認められるなら、それも当然無償ということになる。このあたりも過剰な反応を引き起こす原因なんだろうなと思う。

「紙が読める子」だけを前提にしていないか

教科書をめぐる議論で暗黙の前提になりがちなのが、紙の本を普通に読める子だけを想定してしまうことである。

デジタル教科書の文脈には、ユニバーサルデザインの話、つまり特別支援教育の文脈で、紙で読み書きするのが難しい子も含めたインクルーシブな学びをどう実現するか、という論点もあるはずなのだ。

学力低下の話ばかりが盛り上がっているけれど、本来はこっちも同じくらい丁寧に扱うべきところだろうと思う。学力低下に関しては、ネットで言われているほど心配しなくていいんじゃないか、というのが個人的な感触である。

ただ、教室のなかで紙とデジタルをハイブリッドで選べるとなると、授業をする側はなかなか大変なのではないか…という気もしている。同じ教室のなかに違う媒体で勉強する子が混ざってくるわけで、これは授業のあり方そのものを考え直すことにもなるだろうな、と思う。

しかも、紙にするかデジタルにするかハイブリッドにするかを選ぶのは公立だと教育委員会になるようである。

学びの主語であるはずの子ども本人には選択権がない、という構造になっている。これでいいのか、というのは引っかかるところだ。

現場の感覚としては、ハイブリッドで入ってくるケースが増えるんじゃないかなと思う。そうすると、両方あるということ自体が、たぶん混乱のもとになっていくのだろうな、という気もする。

4月の現場にこれを上乗せできるのか

ただでさえ4月は何もかもが慌ただしい。そこにデジタル教科書導入のための事務作業がドンと上乗せされてくるのだとしたら、なかなか厳しいなぁと思うのである。

あんまり大きな声では言えないけれど、いま教科書会社が副教材として出しているデジタル系のものに関して言えば、決して使いやすいとは言えない場面も多い。

IDパスワードまわりだとか、サイトの動きだとか、けっこうストレスフルだったりする…というのが、自分が日々触れていての実感だ。

そういう実感があるからこそ、デジタル教科書が始業式から、授業開始日からつつがなく安心して使えるのかどうか、というところには、どうにも実務上の不安が残るなぁと感じている。

国語のワーキンググループがありましたね…

第7回国語ワーキンググループの資料を眺めていたのだが、まあ…正直なところ、これは一読してすぐに飲み込めるような代物ではない。

www.mext.go.jp

自分はこの手の議論はそれなりに追いかけているつもりなのだけれど、それでもかなり手強いぞ、これは、というのが率直な感想だ。

ざっくりと方向性だけ紹介しておくと、大きくは二つの話が走っている。

一つは〔思考力、判断力、表現力等〕の事項を「話や文章の機能(仮称)」という枠組みで括り直して、学習指導要領の構造を分かりやすくしようという話。

「事実や知識の整理と理解」「考えや主張の理由付けと吟味」「思いや経験の表出と想像」…といった機能ごとに、扱う文章の種類と学習過程を一体的に示していくイメージらしい。

もう一つは評価の在り方の見直しで、「学びに向かう力・人間性等」を「思・判・表」の過程に「◯」として付記する、という新しい運用が議論されている。

…うん、こうやって書き出してみても、やはりよくわからん。

「分かりやすく使いやすい学習指導要領」を目指しているはずなのに、その設計図自体を読み解くのに相当な労力がいる、というのはたたき台の議論だからかなあ……最終的なアウトプットとしての学習指導要領はどうなるのだろう?

もちろん、構造を整えようとすれば過渡期にはこうなるのは仕方ないのだろうけれど。

中身の是非はもう少し噛み砕いてからまた書きたいところだ。

文理融合学部の「人気が出ない」問題

スタディプラスが高校1・2年生を対象に実施した「文理融合学部に関するアンケート」の結果が公表された。

www.kknews.co.jp

文理融合学部の認知度は7割超と高いものの、「文理どちらも中途半端にならないか」「就ける職種がわからない」という不安が志望のネックになっているという。

文理融合学部は「人気になりにくい」印象

文系・理系という区別そのものがどうなのだ、という議論は昔からよく出てくる。文科省が理系学部の新設や文理融合学部の拡充を進めているのも、そうした問題意識の延長線上にあるのだろうと思う。

ただ、文理融合学部が実際に人気になるかというと、結構苦戦しているケースが多い印象がある。新しい学部名を掲げて開設したはいいけれど、受験生がついてこないという話は珍しくない。

文理融合系の中で比較的うまくいっているのは、データサイエンス学部のような理系色の強い分野だったりする。

「何が学べるか」「卒業後に何ができるか」が見えやすいところに受験生は集まる。今回の調査で高校生が「具体的な学習内容が見えない」「就ける職種がわからない」と答えているのは、つまりそういうことなのだろう。

入試が学びの幅を狭めている

個人的には、高校生の段階で文系・理系とあまり分けすぎるのはよくないと思っている。

個人的には5教科7科目なり、幅広く勉強したほうがいいと思っている。

大学での学びと高校までの学びでは、そもそも「文系」「理系」の意味合いが全然違う。高校で物理が苦手だったからといって、大学以降の学びで理系的な思考が不要になるわけではない。

国語だって同じことだ。

とはいえ、現実には入試が3科目程度の受験を前提にしている以上、高校生の勉強の方向性はどうしても狭まる。

「文理融合」を掲げる学部が増えても、受験する側が高校の段階で文理を分けて勉強してきているのだから、「融合」と言われて不安になるのは当たり前の話だろうと思う。

授業がつまらなければ柔軟性は育たない

自分がこの調査結果を見て考えるのは、高校の授業が「学ぶことの面白さ」をちゃんと伝えられているか、ということだ。

「文理を超えた柔軟な学びを」と言ったところで、高校の授業自体が受験対策に特化してつまらなかったら、新しい学び方に前向きになれるわけがない。

文理融合学部への不安は、高校生の問題というよりも、高校までの教育が「この教科はこういうものだ」と狭い枠に押し込めてしまっていることの帰結なのではないかと思う。

受験に特化した授業が学びの幅を狭め、文理融合のような新しい選択肢への不安を生んでいるのだとしたら…まあ、なかなか皮肉な話だなと思うのである。

新学期に確認しておきたい「ブラウザAI要約」の話

新学期が始まった。年度の始まりに改めて確認しておきたい調査がある。

今年1月にリシードが報じた記事で、社会構想大学院大学の中川哲教授らの研究チームが、小中学校における「ブラウザAI要約」の利用実態を調査した結果が紹介されていた。

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3ヶ月ほど前のものだが、新年度に授業のあり方を見直す今だからこそ目を通しておきたい。

検索するだけで「AI利用」になる時代

この調査で際立っているのは、調べ学習にブラウザ検索を使わせている教員が71.5%に達する一方で、ブラウザAI要約を推奨している教員は10.1%にとどまるという落差だ。そして教員の指示なくAI要約を使っている児童生徒が38.5%、中学校に限ると51.3%にのぼる。

ここが問題の核心だと思う。

今のGoogle検索は、検索結果の上部にAIが生成した要約を自動的に表示する。先生が「ブラウザで調べなさい」と言っているだけでも、生徒は検索した瞬間にAIの出力に触れてしまう。

しかも、それを「AIを使っている」と自覚しているかどうかも怪しい。ただの検索結果の一部だと思っている可能性は十分にある。

こうなると「生成AIを使ってはいけません」という指導は、構造的にかなり無理がある。禁止したくても、禁止できる設計になっていないのだ。

シャドー利用という概念

この記事を読んで自分が初めて知ったのが「シャドー利用」という言葉だった。教員の指導の外側で行われるAI利用のことをそう呼ぶらしい。うまい名前をつけたものだなと思う。

記事では、この調査結果の意味を次のように整理している。

教員の多くが生成AIの利用を「推奨しない」とする一方、現場ではシャドー利用(教師の指導外での使用)が広がっており、方針と実態に大きな乖離が発生していることが明らかになった。

まさにこの「方針と実態の乖離」こそが問題だろう。

教員の目の届かないところでの利用を「シャドー」と呼んで可視化したことは意義がある。ただ同時に、教員がすべてをコントロールできることを前提にした設計自体に無理があるのではないかとも感じる。

検索エンジンにAI要約が組み込まれている以上、端末を渡した瞬間にアクセスは開かれている。管理で封じ込められる話ではないだろう。

先回りして限界を体験させる

調査ではさらに、AI要約の内容をそのまま使う児童生徒が約4割いるという結果も出ている。

検索して、上に出てきたものをそのまま写して終わり。比較も吟味もない。これでは調べ学習の意味がなくなってしまう。

でも、だからといって自力でインターネット上のサイトを読み比べて比較して、信頼度の高い情報をまとめるというのは、スキルとしては相当高度なスキルになるので、実はAI要約のほうがクオリティも高く、情報の信頼度の高いものを出してくる可能性すらある。

とはいえ、AIの要約を一次情報源と突き合わせてみると、出力がけっこう雑だったり、微妙にズレていたり、出典が曖昧だったりする。

そういう「限界」や「危うさ」を体感した上で、検索画面にAI要約が表示されても鵜呑みにしないという判断ができるようになる感覚が必要になるのかもしれない。

研究チームも具体策として、「生成AIが要約した情報の一次情報源へさかのぼる工程を記録する」こと、「AIの出力を結論ではなく、参考の1つとして扱う姿勢の育成」などを提案している。方向性としてはまったく同意する。

授業の外側の話

ただ、授業でこうした活動を一度やって終わり、では足りないだろうとも思う。

日常的に検索するたびにAI要約は表示され続ける。授業で感じた「ちょっと待てよ」を日常でも思い出せるかどうかは、普段の声かけや雑談の中で、情報との向き合い方についてどれだけ対話しているかにかかっている気がする。

AIを禁止するのは現実的に難しい。

かといって野放しにしていいわけでもない。表示されているものを参考にするかどうか、慎重に選ぶ力を育てるしかないのだろう。新学期の始まりに、改めてそんなことを考えている。

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