学校の周りからへの注文が厳しい。
学校の身から出た錆、自浄作用のなさが積み重なってきた結果が今なのかもしれないが、それでも今、それに直面させられている現場は苦しかろう。
色々なもの、自分の専門性だと思っていたことが、削り取られていくときに、最後に何を自信にして教員は仕事をしていくことができるのだろうか。
こういう記事が非常に最近は多い。
学校の最近に多いのか、最近になってきちんとコンプライアンス意識が浸透してきたから件数として計上されるようになったのか、たまたまなのか、本当に増えているのか、何が原因なのかは自分には判断しかねる。
教員の仕事の重要性を考えると、本来は一件でも起こってはいけないような話である。たった一件だろうと、その一件で確実に全体の信用は失墜するし、その一件には被害者がいる。許されることではない。
難しいことは、一口に教員と言ってもだいたい100万人くらい存在するので、まったく見えている世界が異なる。性犯罪は許してはならないが、性犯罪が起こりうる構造が全然違うので、対策にはおそらくかなり色々な手立てが必要となるのだろうと思う。
時間がかかる厄介なことだけに、早く意識を変えて優先的に取り組まれる課題である。
ただ、一方で一教員の立場として感じるのは、教員であるだけで犯罪者のようにラベリングでまとめられるのは、かなり不快感がある。自分はそうではないから一緒にするなという話ではなくて、現場の教員の立場としてはかなり危機的な意識を持って取り組むべき問題だと思っているが、茶化すようなラベリングをされるのは、いかがなものかと思うのである。
言い出した人間の最初の意図とは別に、それがどのような使われ方、広まり方をするか想像できない時点で、そういう相手とはもう議論する気にならない。
問題の根幹は、学校に自浄作用があるかどうかである。学校の中のローカルルールではなく、社会のルールでしっかりと自浄すれば良いし、そういう基準に学校が規律を持っていけばいい。
でも、それを色々な方面から叩かれると、形だけが厳しくなり、結果的に本当に何かしようとする人の気力を削いでいくのだろうと思う。
良心のある人たちが心を痛め、現場から去って行くのだ。
昨日、発売された本が届いた。
ノウハウ本というよりは、かなり骨太に分析的に書かれたものであるので、読むのには手間がかかる。
N=1の探究の持論を語るというよりは、いくつかの事例を通じて何が見えてくるのだろうかと考えるために使える本だと思うが、結構、ちゃんと興味を持って勉強していないと何をつかみ取ったらよいかは難しいかもしれない。
なぜ、こんな言い方をしているのかというと、最近(というかいつでも)探究よりも基礎基本だとか、探究的なことやアクティブラーニングをやっているから基礎学力が無いみたいな話や都会の私立の派手な探究しか成果が出ないみたいな話がバズっている。
そういうことを安易に言ってしまう人にはこういう事例は届かないし、そこで分析されていることも届かないのだろうなと思うところ。
世の中は派手なものに目が行ってばかりである…。
生徒が提出したレポートをAIに読み込ませれば、数秒で要約が手に入る。便利な時代になったものだと思う。キーワードは抽出され、論理の破綻も指摘してくれる。評価のために必要な情報は、ほとんどそこに揃っている。
でも、なんとなくそればかり使う気にならない自分がいる。
AIが生成する要約は思考の揺らぎが見えてこない。言い間違えや曖昧な表現など、子どもの表現から子どもの思考の揺れが見えると、なんとなく見取れるものがある気がしている。
自分が答案を読むのは、単に正誤を判定するためではない。その文章の向こう側にいる生徒を知るためでもある。
答案から読み取れる無数のサインは、すべて次の授業をデザインするための、てがかりを探している。
AIの要約は、揺らぎが無いからアイデアのひっかかりが生まれない。
もちろん、効率を否定するつもりはない。時間は有限であり、常に多くのタスクに追われている。誤字脱字のチェックや、より良い表現の提案など、AIがやった方がよほど効率的だ。
しかし、生徒の思考を辿ることで、自分の観を磨くことは必要だろうなと。
最近、AIで仕事が楽になったという話をあちこちで耳にする。
自分自身も、その恩恵を大いに受けている一人であるのは間違いない。
日々の細々とした事務作業から情報収集まで、面倒な仕事はなんでも自分の肩代わりしてくれる。使わない手はないのである。
しかし、その一方でこんなことを思わないでもない。「AIでラクをすることで何を手放しているのだろう」と。
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