最近、AIで仕事が楽になったという話をあちこちで耳にする。
自分自身も、その恩恵を大いに受けている一人であるのは間違いない。
日々の細々とした事務作業から情報収集まで、面倒な仕事はなんでも自分の肩代わりしてくれる。使わない手はないのである。
しかし、その一方でこんなことを思わないでもない。「AIでラクをすることで何を手放しているのだろう」と。
「楽になった」と感じる仕事の正体
AIを使って「ああ、楽になったな」と感じる作業を考えてみると、自分自身がこれまで「めんどくさい」と感じ、その作業自体に意味を見出せていなかったものではないか、ということである。
言わば、デヴィッド・グレーバーの言う「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」に近いのかもしれない。
もちろん、それらが組織の運営上、必要であることは理解しているけど、自分の専門性や情熱を注ぎ込むべき対象かと問われれば、首を縦に振れない。そんな仕事が一番めんどうである。
一方で、自分が本当にやりたいこと、例えば、生徒たちの知的好奇心を刺激するような面白い授業を構想したり、生徒の成長に繋がるフィードバックを考えたりすることに対して、私たちは「楽をしたい」と思うでしょうか。むしろ、そうした創造的な営みには、時間を忘れて没頭してしまうものです。
AIが代替してくれる「楽な仕事」とは、そもそもやりたくないことなのかもしれない。やりたい仕事にAIを使って楽になったと喜ぶ人は少ないだろう。
失われるかもしれない下積みのチャンス
とはいえ、こと教育については、こんなことも思う。
例えば、AIが生徒の作文を瞬時に、そして完璧に評価してくれるようになったとして、かつて新人時代に、何百枚もの作文と格闘しながら「うーん」と唸り、評価の目を養っていった、あの「下積みの時間」はどこで代替するのか。
効率の名の下に、大量の苦労に押し流されて学ぶ経験的な知恵、いわゆる「身体知」とでも言うべきものを、軽んじてしまったらそれは教育なのだろうか。
一見、非効率に見える作業の中にこそ、専門性を育む上で重要な何かが隠されているのではないか。そんな気もする。
AIがくれた時間を、私たちは何に使うべきか
AIに作文の一次評価を任せたことで生まれた時間で、これまで以上に多くの生徒の作品に目を通せるようになるかもしれない。あるいは、単に評価するのではなく、生徒一人ひとりと対話し、その作品の背景を深く理解する時間に充てられるかもしれない。
誤字脱字や表現の適切さを指摘するのはAIに任せ、私たち人間は、その文章から感じ取れる生徒の人間的な部分に、そして成長しようということに寄り添う。
そういう時間にしたいと思うが、得てして生み出された時間は空転して、他のブルシットな仕事に奪われがちなんだよなあ。






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