ある生徒が提出したレポートを読んで、色々と思うことがあった。
構成は論理的で、引用されている資料も的確。言葉の選び方にも巧さが感じられる。正直に言って、非の打ち所がないのである。
手放しで褒めるべきなのだろう。しかし、はっきりと思うことがある。「このレポート、本当に君が書いたのか?」と。
生成AIの進化と普及がこれだけ進んだ今、体裁が整いすぎていれば、それはAIだなあとすぐに思うのである。
でも、AIの利用を「ズル」だと決めつけて禁止するだけで、未来を生きる生徒たちの力を本当に育むことができるのか…?
「AI禁止」という名のいたちごっこ
「レポート作成における生成AIの使用を禁ずる」と宣言するのは簡単である。しかし、それは本当に有効な手立てとなるかは疑問だ。
おそらく、多くの生徒はそれでもAIを使うだろう。
教員はAIが書いた文章を見破るツールを使ってズルを見逃さないように努力しようとするかもしれない。しかし、いつまでたっても、いたちごっこである。
社会に一歩出れば、AIをいかにうまく活用するかが仕事の生産性を左右する必須のスキルになっている。それなのに、学校という空間だけがAIをかたくなに拒んでいても、なかなか上手くいかないだろう。
AIを「思考の壁打ち相手」にする
どうしたものか。個人的には、教員が提示する「問い」のあり方が変わるんだろうと思っている。
これまでの課題が、AIが最も得意とする「知識を答える」「要約する」といったものが中心だったのなら、これからはAIには答えられない、あるいはAIが出した答えを吟味・評価するような課題を扱わざる得ない。
例えば、国語の授業でこんな課題転換はどうだろうか。
「夏目漱石の『こころ』のあらすじを800字でまとめなさい。」はAIが瞬時に解決するだろう。だからこそ、「生成AIに『こころ』のあらすじを「Kの視点」「先生の視点」「奥さんの視点」で書かせ、どの要約が最も作品のテーマを的確に捉えているか、自身の解釈を交えて論じなさい」みたいな、何重にも入り組んだ問いになるのだろう。
こうすることで、生徒に求められる力は、単に情報を整理する力から、複数の情報を比較・吟味し、自らの考えを構築するような高次の能力にならざる得ない。AI時代の課題は生徒にも教員も面倒になるのだろう。
ルールは「与える」ものではなく
もう一つ大切なのは、AI利用のルールを教員が一方的に決めて押し付けるのではなく、生徒たち自身に考えさせるプロセスである。
このプロセスを通じて、生徒たちは単にルールを受け入れるだけでなく、そのルールの意味や背景を当事者として考えるようになることが求められているのだ。いわゆるデジタル・シティズンシップ教育の第一歩になるだろうと思う。
AIが進化すればするほど、皮肉なことに、教室での対話や、友人とああでもないこうでもないと議論する時間、そして自分の頭でうんうん唸りながら考える時間といった、極めて人間的な活動の価値は、むしろ高まっていくだろうし、そういうことをするための時間が生まれるのだと思いたい。






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