こんな記事を見た。
デジタル・シティズンシップ教育の話題がこうして一般向けにも紹介されるようになっていることは少しずつ考え方が変化しているのだなあという気がしている。
こうして2020年ごろからの流れを思い返すと、少しずつでも変化していくものであるという気がしている。
ただ、こういう世間の様子に比べると、現場の教員の意識の変化には結構な温度差があるという感じがある。そして、デジタル・シティズンシップ教育の実践の取り組みに何となく誤解がある気がしている。
散々言われているけど…
デジタル・シティズンシップ教育について、散々、勘違いされていることとしては「とりあえず放置」ということである。生徒が好き勝手に端末を使って、望ましくない結果を出してしまっているのにもかかわらず、そのことも放置してしまうようなやりかたも目にしたことはある。
というか、自分がいちいち子どもとハレーションを起こすのが面倒くさいので、デジタル・シティズンシップ教育というお題目を言い訳にして、何もしないで放置しておくみたいなことを平気でやるのである。
こういうことをやられてしまうと、ちゃんとデジタル・シティズンシップ教育に取り組もうとしている人にとっては、かえって足を引っ張られる形になるのでかなりしんどい。
あまり難しいことを言って、実践のハードルを上げてしまっても、実践としてはあまりよいことはではないので、この部分についてはスタートする前によく職員同士で話してみないといけないのだろうと思う。
デジタル・シティズンシップ教育の授業の典型としては「必要な知識はちゃんと定義して教える」「具体的なジレンマを話し合う」「思考ルーチンに基づいて自分で判断する」という3つくらいのポイントをちゃんと押さえておけば、まずは手応えのある授業にはなると思う。
当たり前であるけど、放置して、事故らせて、後から何かを叱責することは教育ではない。
教員の日常そのもの
デジタル・シティズンシップ教育でどのような題材を見つけるか、どのような声かけを子どもにするかを判断するかということは、教員自身のデジタル生活の振り返りが必要だと思っている。
自分自身が問題だと実感していることでないと、おそらく子どもたちと対話が成り立たないのだろうと思う。
決して、答えを持って子どもたちを期待通りに動かすというための手法がデジタル・シティズンシップ教育ではないので、自分自身の問題に向き合い、一緒に解決していこうという姿勢が大切なのだろう。