ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

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苫野一徳『教育の力』を読んで

Teaching

※本記事は、別の場所で、自分が書いた記事を引っ越して来たもので2014年に書いています。

競争や序列化が教育に持ち込まれることに対して、日々、暗澹たる気持ちで過ごしている自分にとって、この一冊のように、真摯に教育について主張してくれる学者がいてくれることは、とても心強い。 

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

 

よく似たタイトルの某有名人の書いている岩波新書から出ているある本

教育力 (岩波新書)

教育力 (岩波新書)

 

もありますが、「岩波なのにこの見識のなさか」と苦々しく思ったことからすると、本書の現在の教育を取り巻く問題を丁寧に分析し、現実的な方向性を示していることは、とても真摯に思えました。

以下、本文についていくつか感じたことを挙げておきます。

現実的な「学校教育のイメージの転換」の説得力

この本で筆者が最初に主張するのが「そもそも教育は何のため?」ということである。この問いは教育にかかわっている人間であれば、非常に重いものであることがよく理解される。なぜなら、教育について何かを語ろうとするとき、一番大きな軋轢を生むのが「教育観」と呼ぶべきもので、この「教育観」が共有されずに、議論が水掛け論に終わることが少なくない。この本の中で筆者もそのことを以下のように述べている。

教育の世界に身を置いていていつも心苦しく思うのは、みんな善意や熱意から教育を論じ合うのだけれど、ある種独りよがりなそれぞれの“思いやり”や“思い込み”がどうしても先走ってしまい、そのために、不毛な対立がいたるところで起こってしまっていることです(P.10)

このような現状を踏まえて、筆者は「教育とは何か」という問いに対して、子どもにとっての教育の意味として「自らの<自由>を実質化してくれるもの」(P.206)として、社会の要請として「<自由の相互承認>の原理の土台になるもの」(同)と答え、この二つの原理を持つことで、不毛な論争を乗り越えることができるようになるとしている。このような学校観や教育観は、実は現状の混迷する教育現場に明快な答えを与えてくれるのと同時に、今までの学校観、教育観をラディカルに変革するものでもあると思われる。つまり、試験での得点率や順位を競うような学力やそのような学力を保障するための学校というイメージを却下しているのだ。

だからこそ、本書で筆者が示すこれからの教育の方針は「学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」の融合型へと転換」(P.8)というものである。この方針に従って、近年、教育現場を賑わえているICT教育や反転授業の可能性などを現実的に論じ、さらにそのような教育を実現するための学習環境や教員養成やカリキュラムについても言及している。ここでは、各論に踏み込むことはやめておくが、最近の流行に乗じた浮ついた提言ではなく、デューイやキルパトリックや佐藤学などの理論をにらみつつ、原理原則がぶれない提言であるため、決して「絵空事の理想論」ではない。

以上のように、本書の提言は真摯で現実的なものであり、非常に好感が持てるものであるが、一方で、いくつかの疑問点もあるので、以下に挙げておく。

教育を取り巻く市場原理

本書の一番の弱点だと感じられる点が、教育を取り巻く環境を性善説的に見すぎなのではないかということである。人間の欲望や欲求を掘り下げ、そこから教育が何をなすべきかというような原理原則を導き出し、その原理原則に沿って、少しずつ「よい」方向へ、様々な方法を模索していこうとする提言は、競争や批判に疲弊している教育関係者ならば、夢も希望もあり、勇気づけられる話である。しかし、その方向性に変化することができるかについては、はたして不透明である。本書の中で筆者は「高校受験のあり方も大学受験のあり方も、これから少しずつ、しかし大きく変わっていくだろう」(P.146)と述べているが、これは塾産業を経て、私学で勤務している自分にはあまりに楽観的過ぎるとしか思えない。

「知的基盤社会」における学ぶ力の重要性や、そのような学力を育てることの意義は、本書でも十分に論じられ、その議論の一つ一つに重みがあり、また、自分自身もそのような方向性で教育が行われるべきだと思っているが、世の中の多くは、いや、教育関係者でさえも、そのような学力観を受け入れようとしているとは思い難い。たとえば、大学入試における「人物重視による選抜」ということが少し前に話題になったが、あのときの世論の反応は、概ね批判的なものであった。

それは、もちろん、文字面に煽られて感情的に反応している部分もあるのだろうが、一方で、そのような感情的な扇動を行っている関係者がいるということを軽く見ることはできない。つまり、「学力」は「知識の暗記・習熟」であり、教育の成果は「序列」であるとすることが、都合がいいという層が少なくないということは、教育を論じるときに無視することはできないのではないか。

簡単に言おう、本書は「教育に対する不安」を切り売りする塾産業の存在を軽く見積もりすぎなのではないか*1

確かに、筆者の言う通り、少子化やグローバル化などの様々な要因から、入試のあり方も変化していくことは間違いないだろうが、「一元的な評価軸における勝敗・序列化はなじみにくいものになっていく」(P.153)と結論付けるのはやや強引だろう。

筆者自身も「一部の上位大学は存続する」(P.153)ことを認めているが、この「一部」がある限り、「東大に入れるような教育をします」という文句が、「受験に勝てる方法を教えることが至上の価値だ」という煽りに、脅かされ続けることになるのではないか。*2

かつて「ゆとり教育」が批判にさらされたとき、その批判を塾産業が煽っていたことや「中学入試」がブームになったことやあろうことか、学校が(特に私学)「うちなら東大や京大に合格できる教育をする」と声高に説明会で宣伝していること、そして、その結果、「ゆとり教育」の理念が教育されず敗北し、学習指導要領が「知識」の重視に揺り戻されたことを、どう総括し、乗り越えていくべきなのか。

塾産業を排除するのも難しい、外から見る以上に学校に塾産業が食い込みすぎている。進路指導に「模試」が使われることや「既卒生」が予備校に通うことや副教材など、あらゆるものが学校に食い込んでいる。

この「カネ」をめぐる思惑の絡む産業が、教育に多大すぎる影響を与えていることについて、そして、それに本当に敗北することなく、「多様化」「協同」の教育を実現できるのだろうかということを、いつか論じてくれないものかと期待している。

「学級」をめぐる問題

教育を取り巻く産業の話は、やや自分の食傷気味な気分が反映された意見なので、感情論に近いものがあるが、以下の議論については、もう少し、制度的、理論的な話である。

本書で筆者は「学級制」について、「人間関係の流動性」がないことを指摘し、「同質性」を強要するような点を批判しているが、この点についてはやや議論が、「個別化」「協同化」「プロジェクト化」という方針に偏りすぎであるように見える。

たとえば、PBL(プロジェクトベースラーニング)では、生徒の学習は学級単位ではなく、「アドバイザリーグループ」というプロジェクトごとに組まれるグループで行われ、人間関係は「学び」のために構成される流動的なものであるので、「個別化」「協同化」「プロジェクト化」という方針からすれば、確かに「学級」という枠組みに生徒を固定化しておく意義は薄いという主張はわかる。

しかし、看過できなこととして、いくら少子化とはいえ、プロジェクト学習先進国(たとえば北欧)では、子どもの数、学校の規模が違うということは、学校を運営し、教育を実践するという観点からすれば、看過できない問題ではないか。もちろん、この点については、たとえば「コミュニティスクール」という言葉が注目を集めているように、学校自体が地域などに開かれていくことで、様々なリソースを獲得することで、人数という問題は解決できるかもしれない。*3

ただ、そのような制度や運営上の問題以上に、自分は「学級」というものを、解体する必然性があるとも思わない*4。というのも、まず、「学級」を単位として高い教育効果をあげてきた、今までの教科教育の実践や理論は、継承、発展させる価値がある財産であるということだ。現実的には、「個別化」の方向へ移行するのは必要なことであり、必然的なことだと思うが、だとしても、「学級での学び」の中で価値があるものは継承されていくべきだと思う。

さらに、「学級」という共同体がうまく運営されるとき、子どもたちの自尊感情や学習意欲が高まるということ、そして、その運営のための手法がさまざまな研鑽されていることを過小評価する必要はないのだろう。

本書で筆者は、短絡的に「対立」で何かを議論することの愚を指摘しているため、その定石にしたがって自分なりの結論を述べるのであれば、やはり、カリキュラム(学習指導要領)の弾力化によって*5、地域や学校の事情にあわせて、「学級」や「協同学習」が柔軟に選択できる制度的な支えが得られることが望ましいのだと思われる。

ただ、その際にもやはり気がかりなのが、「協同」という多様性を目指したことによって「競争から落とされる」と煽る存在が「学びの柔軟性」を奪い去る気がしてならないことだ。

注:本書のなかで「学級を解体すべきだ」という旨の記述はありません。完全に私の問題意識が本書と無関係に先走ったタイトルになってしまっていました。著者ご本人からわざわざご指摘いただく不手際、申し訳ありません。

結論

真摯に教育を語るためには、常に勉強しなければならない。「すべてのことが正しい」という過度な相対主義も、現実的に子どもを相手にする学校という空間にはあまりに無意味であるし、「これが正しい」と強固に主張することも、目の前に適応できな子どもがいた時に苦しめることになる。

だからこそ、その場その場で適当な判断ができるように、自らの器量を増やしておかねばならないし、教育をめぐる議論に対しては、真摯であらねばならないと感じる。

以上、思いついたことを、つれづれにまかせて。

*1:嫌な話だが2018年の段階で、2020年度の新テスト対応を謳った妙な商品が跋扈しているようすをみると、なかなか理想通りには行かないと思わさえる。

*2:2018年の現状では「二極化」という風潮が見られているように思う。

*3:2018年、つまりたった四年経ったところ、この方向に現実味が出てきた。

*4:ここは筆者は学級を解体するとはいっていないので私の勇み足である。

*5:皮肉なことに新しい学習指導要領は過去最長になっている。かなりあれこれと縛りが強くなっているが……好き勝手やってきたことに業を煮やした形とも言える気がしないでもない。

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