ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

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【書評】最強のアクティブ・ラーニング?

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※写真は最強のイメージです。

なんだか誇大広告みたいなタイトルになりましたが、雑誌そのものがそういう名前だから仕方ない(笑)

あまり中身が薄い内容ならば紹介しないのですが、いくつか読んでおいてもよいと思う点もあったので、少し紹介しておきます。

なお、構成は、「編集委員の論考」「研究者の論考」「アクティブ・ラーニング慎重論」「実践報告」という構成になっています。「アクティブ・ラーニング慎重論」を入れているあたりに、好感が持てます。

本当に「史上最強」なのかは、読者諸氏の賢明な判断にお任せします。

アクティブ・ラーニングの条件とは…?

先に、批判めいたことを述べておきます。

この本を取った人が全員思うことであるでしょうが、「何だこの巻頭の悪乗りした人たちは!?」*1と思う人が多くいるのではないでしょうか。

まあ、それはともかくとして、関東座談会の記事として、「機能するアクティブ・ラーニングの条件」ということがテーマに議論されていますが、この座談会の内容自体は、各自が思い思いに自分の思うことの述べているものなので、特段、新しい話はないように感じます。

活動あって学びなし」にならないためにはどうしたらいいか、「インクルーシブ」にするためにはどうしたらいいか、ICTを関連させていくにはどうしたらよいのかというような内容であり、最終的には「教師が学び続けないとダメだ」ということや「教員養成にも課題がある」ということなので、厳しい言い方ですが、平々凡々な内容です。

むしろ、全員が少しずつ異なる立場から、自分の思い描くアクティブ・ラーニングについて語っているため、微妙に方向性がすっきりとしない印象です。

その印象は、本書のメインコンテンツに入っていくと、よりはっきりと論考の違いのために強くなります。

ある意味で、色々な立場からの論考や実践を見ることができるので自分にあった方向を見つけるのにはよいのかもしれません。

個人的に参考になった内容を紹介しておきます。

インクルーシブ発想の教育とアクティブ・ラーニング

まず、インクルーシブ教育の専門家であるノートルダム清心女子大学の青山新吾先生の論考が勉強になりました。

普段、私立ということもあって、インクルーシブという観点については、あまり真剣に考えなくても何とかなってしまっているという甘えがあるため、こういう観点についてはほとんど考えたことがない。

しかしながら、アクティブ・ラーニングを行うことで子どもたちがそれぞれに抱えている特徴や課題が顕在化してくるため、それらのことを真剣に考える必要があるように思います。

特に、以下の指摘が個人的には気になっています。

子どもの言動の背景は、丁寧に読み解いていく必要がある。個の実態把握とかアセスメントとか言われる作業が重要である。(P.31)

このように述べるのも、「活動的な学習形態」や「「場の力」に無自覚に依存」して授業を教員が行ってしまうと、「形だけのアクティブ・ラーニングに陥る」おそれがあることを強調しているからです。

この論考では、最終的な考察として「子ども同士のつながりと「場の力」によって子どもたちの意識が変わる」(P.35)として、アクティブ・ラーニングの形態のメリットを強調しているので、「場の力」のもたらすメリットを十全に生かすことを意図されているのだと思います。

だからこそ、その一方で、個人をよく見ないで、全体の「活発な」様子に安易に満足することを警告しているのです。

また、青山先生のいうところの「場の力」や「個の実態把握」については、本書掲載の東京学芸大学の岩瀬直樹先生の以下の指摘と併せて考えるべきだと思います。

教室をよく眺めていると、実は子どもたちはごく少数の相手としかコミュニケーションをとっていないことが分かります。(中略)…子ども自身に「どんどん関係を広げよう」と丸投げしてもどうにもなりません。意図的に「より多くの人と心地よいコミュニケーションをとる機会のデザイン」をすることが重要になるのです。(P.38)

教員が何も手立てを取らない状態では、結局、教室そのものは決して子どもにとって居心地のよい空間として機能しないのです。だからこそ、少数の個のつながりがバラバラに存在するだけの教室を、どこにいても安心できるような空間へと教員がサポートして作り上げていかなければいけないという発想が必要となるのです。

本書では、その点についての手立てなどが考察されていることが、大いに参考になりました。

アクティブ・ラーニング慎重論について

本書はタイトルの通り、「アクティブ・ラーニング」に対して好意的な論者による、アクティブ・ラーニング推進の側面を持った本である。

にも関わらず、アクティブ・ラーニングの導入に対して慎重論を唱える、植草学園大学の野口芳宏先生と追手門学院小学校の多賀一郎先生の論考を取り上げている。

個人的な感想を述べておく。

野口先生の論考は、議論の前提がかみ合っていない。

たとえば「講義を聞いてノート」を取ることも、色々考えているならばアクティブラーニングであるというような旨のことを述べている(P.72)が、これは中教審の審議のまとめの中で、「深い学び」として挙げている「学習対象と深く関わり、問題を発見・解決したり、自己の考えを形成し表したり、思いを基に構想・創造したりする」ということに対して十分な答えになっているとは言い難い*2

もちろん、今までの教育改革が負の面を総括されてきていないにも関わらず、次々と話が進んでしまっているというような指摘は正しいが、議論の立脚点を明確にしないで「パッシブ・ラーニング・ハート」などのように言葉遊びをしていても仕方ないのではないか。

多賀一郎先生の論考は、現場感覚として非常に妥当

野口先生の論考に対して、多賀先生の論考は、アクティブ・ラーニングが大学入試がセットとなった、社会の変化と連動した改革として捉えており、「「これまでも一斉授業でALをやってきた。子どもたちはみな、アクティブに活動していたから、何も変える必要はない」などというようなことは軽々しく言えない」と述べるように(P.84)、これまでの動向を踏まえたうえでのアクティブ・ラーニング慎重論であるため、現場の教員にとっては参考になる点は多いのではないだろうか。

結論としては、現場は「やれと言われたらやるしかない」のです。

しかし、その時を迎えるにあたっても、「本当にアクティブになっているかどうかは、子どもを見取る力のない教師には分からない」として、「一斉授業をしながら培ってきた教育技術は、間違いなくALにおいても力を発揮する」のだから、「あわててALに飛びつかなくてもよいので、当たり前の一斉授業で子どもたちに力をつけられるように」ということを述べている(P.83)。

さらに、私立と公立ではALの導入が迫られる時期に違いがあることを述べ、今、それぞれの学校でどのようなことを教員がやらなければいけないかということを述べています。

したがって、多賀先生の論考は、ALに飛びつくことについては警鐘を鳴らしながらも、より授業改善していくために、今、きちんと教員としての力量を身につけることの重要性や、指導法の勉強の必要を述べているものです。ですから、現場の教員にとっては、非常に参考になる部分が多い論考なのだと思います。

ライティングワークショップの実践の紹介がある

国語教育的には、菊池省三先生のディベートの実践例や甲斐崎博史先生のライティングワークショップ「作家の時間」についての実践例が載っているのが面白いところです。

特に甲斐崎先生のライティングワークショップの実践については、ライティングワークショップにおいて、「協働することが目的ではない」ということや「教師の役割」について述べられており、単純に「話し合えばいい」「協働させればいい」ということに陥らないためにも、参考にするべきところは多いものです。

実践報告の詳細については、本書の紙幅の関係で細かいことは分からないのですが、子どもたちがどのような活動をしているのか、どのような支援をしているのかということの一端を見ることができます。

総評

最強かどうかはわかりませんが、個別にみていくと、それなりに面白い部分もあります。

表紙にげんなりしないで(笑)、手に取ってじっくり読んでみると面白いかと思います。

*1:オブラートに三重ぐらいにくるんだ表現です。巻頭グラビアのようなカラーページとかはなかなかアレである。

*2:本書の出版の時期から考えて、野口先生の論考は審議のまとめが出るよりも前に書かれている。ただ、同趣旨のことは昨年の「論点整理」でも「学習経験の中で活用することにより定着し、既存の知識や技能と関連付けられ体系化されながら身に付いていき、ひいては生涯にわたり活用できるような物事の深い理解や方法の熟達に至ることが期待される」と述べられている(P.17)ことからすれば、講義を聞いているだけの状態のことを「アクティブ・ラーニング」と呼ぶのは、やはり問題が大きいと思う

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