年間授業計画は決まっていても、実際にどう授業を動かしていこうかと考えているときが一番大変で、一番楽しいときです。
正直、新しい単元を考えなければいけなくなる時と、授業が動き出すまでの頭の中のモヤモヤ感は、もう、ウンザリするほどキツイ。
よく、準備なしで授業いける人がいるな(笑)と、毎回、思ってしまいます。前の短歌の授業なんて二か月かかったのに、考査ではひどい目に遭ったところなのに……。
現在はやっと考査に目途がついてので、授業を考えます。そんな授業構想のたびに使おうかなぁと思って結局お蔵入りになっているんだけど、面白い本を紹介します。
誰か、私の仇を取って、この本を使ってください(笑)
一線級の研究者による古典のエッセイ集
全六巻のシリーズものになっているのですが、それぞれ「からだ」「はたらく」「つながる」「たたかう」「いのる」「死ぬ」というテーマごとに、各著者が選んできた古典の一節とその一節をもとに書いたエッセイが集められています。
たとえば、自分が特にお気に入りのものを紹介すると、第二巻の「はたらく」の中で佐伯真一先生が山鹿素行の『山鹿語類』を引いて次のようなエッセイを書いている。
士ハ不耕(たがやさず)シテクライ、不造(つくらず)シテ用イ、不売買(ばいばいせず)シテ利タル、ソノ故何事ゾヤ。
…「プロになりさえすればよい」と言ってしまった時に、取り落してしまうのは、「その仕事にはどんな意義があるのか」という問いである。…(中略)…昔からよいとされている生き方で生活ができればそれでいいと考えるのではなく、自分の仕事が社会にとってどのように役に立っているのか、その存在にはどのような意義があるのかと厳しく問い詰め、自省を迫るその姿勢には、現代人も学ぶべき点があるのではないだろうか……
このような具合で、六巻に渡って珠玉のエッセイが書かれているのである。
古典を学ぶにはならなくても古典で学ぶはできる
このシリーズは、古典についてのエッセイ集であるので、決してこれを読んだからといって、古典を原典で読みこなすことができるようになるようなものではない。
基本的に、古典はエッセイを述べるための「枕」になっているのであって、本当に原典や古典の世界に浸りたいなら角川のビギナークラシックシリーズのほうがいい。
でも、子どもたちがぶち当たる「なんで古典を勉強しなければいけないの」という問いの一つの形として、このエッセイ集はありえる。
言葉にすると月並みで陳腐だ。でも、一言でいうのであれば、このシリーズの通り、「人生をひもとくヒント」が古典には凝縮されているから読んだ方が人生が豊かになる、それに尽きる。
じゃあ、どうやって現代と古典がつながるのか……その一例が、上で引用したようなものであるし、また、「紫の上と匂宮の会話」から描かれる親愛の情の普遍性など、それぞれの巻でそれぞれのテーマによって人生を彩るエッセイになっている。
授業にどう活かせる?
さすが岩波というべきか、内容としてはちょっとやっぱり高尚というか「分かる人にはたまらなく伝わるよね」という雰囲気はある。
だから、生徒に脈絡なく勧めてもなかなか読み込んでいくのに骨が折れて読んでもらえない(すでに撃沈済み)。
でも、ふとした折に触れた時に読んでもらえると、非常に響くものがあるようだ。なかなか、そのような余裕が生活になさそうなのも悩ましいけど。
やはり、このエッセイ集を授業で取り入れようというのであれば、高校の国語総合の授業なのだろうなぁと思う。
古典を引用して自分の伝えたい意見に説得力を持たせるだとか引用を活かした構成を考えるだとかは、やはり生徒にとってはかなりハードルは高いものであるし、現代文と古文を柔軟に授業できる国語総合でやるのがふさわしいと感じる。
また、このエッセイ集なのですが、著者によってかなり書きぶりに差があるのも実はとても題材として面白い(笑)
たとえば、久保田淳先生は本当に言いたいことを端的に必要なことしか言わないので、切れ味としては抜群なんだけど、読み手側が必死にならないと読めないようなエッセイであるのに対して、例えば鈴木健一先生などは茶目っ気を見せながらも、素材の持つ生命感を上手く伝えているエッセイであるし、紅一点の山中玲子先生の文章は、やはり男性の著者では思いつかないような題材を選んだり解説になっていたり……などと言った具合だ。
こういった、著者の文体や書きぶりの違いを比較させたうえで、自分の書きぶりについて考えてみたり、真似したい人の書き方を手本にして実際に書いてみたりという形で授業できないものかなぁ。
生徒にとっての必然性……というところがやはり難しいところではあるけど、ちょっとおもしろそうな気がする。
どうでしょうかね。いい授業になりそうでしょうか。