そうです、昨日の続きです。
今日は授業をやるにあたっての自分の準備について振り返ってみよう。
「学習のてびき」を活用
今回のWWをやるにあたっては、時間があまり取れないということもあって、できるだけ自分が話す時間を短くしたいと思っていた。
ただ、そうするにしても「初めて」の試みだけに、様々なルールや運営の方法を生徒に伝える必要があった。そのため、今回は「学習のてびき」を生徒に渡すことで、時間の省略を狙ってみた。
「学習のてびき」に記したのは以下の内容
- 単元の目標・評価基準
- 作成の手順
- ライティング・ワークショップの流れ
- 提出の要領
- エッセイの見本
- 日程のめやす
あまり長くしても生徒にとって読みにくいとは思ったものの、結局、B4で3枚もの分量になってしまった。
今回、自分の中の新しい試みとしては
- エッセイはWordで作成し、Dropboxのファイルリクエストで提出すること
があったため、どうしても提出に向けた説明が長くなってしまった。この説明の長さはやはり悪影響を及ぼしたように思う。
第一に、結局、長すぎて生徒はてびきを読まなくなっていた。執筆における注意事項や授業の展開を忘れてしまっている。だから、授業の時間数や執筆の計画が上手くいかなかったり、提出されたファイルを見ると書式やファイル名が指示したものでなかったりしていた。
第二に、せっかく示した見本が見本として機能してくれなくなってしまった。見本を示すことで、生徒に「エッセイとは何か」「どうやって書けばいいのか」などの方向性を示したかったが……。
ただ、目に見える形で「てびき」でどんな活動をするのかを示しておくことは、生徒が自分で考えて作業を進めるためには必要なことだとは思う。
特に、「見本」を読み返し、どのように作業を進めていくかという見通しを持たせることの意味は大きいと感じる。
カンファレンスが難しい
今回のWWでもっとも苦戦したのが、個別の生徒を把握し適切にコメントをしていくカンファレンスである。カンファレンスの重要性は各種のWWの本にも指摘されている。
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しかし、カンファレンスの何が難しいと言えば、第一にクラスの人数の問題がある。自分が担当しているクラスは30人以上いるため、一人一分でカンファレンスをしたとしても、一回の授業で全員に声をかけることは難しい。
急いで回ろうとすると、その雑な態度が生徒に伝わってしまうし、だからといって生徒の悩みを一から十まで聞いていたらとてもじゃないけど、30人の相手はできない。
代用策として普段から使っている大福帳をカンファレンス代わりに使ってはみたが、「生徒の作品を読み、読者として反応する」という個別のカンファレンスほどの効果が上がっている手ごたえは得られなかった。
カンファレンスで一人一人の生徒を見て回る良さは「読者として反応する」ことで、生徒に伝えられるメッセージが多いことだと今回のWWをやって感じただけに、この時間の足りなさは大きなジレンマになった。
第二に、実践報告の多くが小中学校のものであり、自分が指導している高校の実践が少なかったため、どのような声掛けをするべきなのかということに自信が持てなかった。こういう言い方をするのは適切でないかもしれないが、やはり上で紹介した『作家の時間』の授業は小学校の様子のものであり、同じような声掛けは高校生にはできない。
やはり、高校生には高校生の現状に合わせた引き出し方があるように感じられる。もちろん、書き始めの段階では小中学校のような丁寧な引き出し方も非常に役に立つと思うが、逆に執筆が進んできた段階においては抽象的・論理的な思考を伴う執筆に誘導していくべきだと感じるし、生徒から求められているリアクションも割と高度なことも多い。
自分の力みを強く感じる
カンファレンスが上手くいかなかった理由としては、自分が生徒をどんな方向に向かわせたいのかということが初めての挑戦であったのではっきりとしなかったということも大きかったし、逆説的だけど「何とかしてやらないと」と思っていたことが力みになって生徒に伝わってしまったかなぁとも思う。
確かに「どうやって生徒を育てたいか」というイメージを持つことは必要だけど、もっと気軽に一読者として反応すればよかったかなぁと思う。どうしても「良いものにしよう」という力みが入ると、生徒に対して「指導」という色合いが強くなってしまって、せっかくWWでやっている意味がなくなっているように感じる。
もっと、生徒自身がいいものを作ろうとする意志の力や題材自体が生み出す学習に向かうエネルギーに任せていい部分だったのかもしれない。自分の方は、ゆったりと読者として素直な反応や感想を伝えればいいんじゃないかと感じている。