ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

三学期の授業を準備する

始業式を迎え、いよいよ三学期の授業が始まるため、授業準備に時間を割いています。

新年なので自分の授業づくりの観点を書いてみよう。

授業の基本的な方針

自分の授業では授業者が前に立って説明する時間は15分くらいまでにしたいと思っている。50分の授業で少なくとも30分くらいはちゃんと話したり聞いたり、読んだり書いたりしないと力がつかないだろうと思っている。

自分の説明をできるだけ少なくするために、単元のはじめに「てびき」を配布し、必要があれば見本も作って渡すようにしている。

単元を展開するときに、基本的にはその「てびき」を読めば、参考にするべき資料の一覧や気をつけてほしいことなどがわかるようにしている。特に参考資料については、ICTを活用すると手軽にリンク集を作ることができるため、生徒の参照できる資料は圧倒的に増える(逆に言えば、リンク集である程度「こういう議論の方向性は信頼できる」という例を示しておかないと、生徒が自由に検索していると結構危ないことがある)。

授業では冒頭に必要なことはミニ・レッスンの形で伝達する。ミニ・レッスンについては、ある程度「こういうことは触れよう」と単元の前に決めておきつつも、実際には生徒の活用の様子を見ながら、前回の授業の様子を踏まえてミニ・レッスンをする。

「てびき」と「ミニ・レッスン」で授業をコントロールしていると言えるが、実際は単元が始まると、生徒の活動の様子によって自分の予想とは違うところに転がることもしばしば……。高1のころだと割と予想の範囲に収まることが多いのだけど、高3くらいまでやっていくともはやコントロールなんてできないくらい、色々な生徒からのアイデアを受けることも多い。

生徒に手渡す素材で勝負する

個人的に大切にしているのが、その単元の最初に「生徒に手渡す素材の面白さ」である。思わず読んでしまいたくなるような、思わず真似したくなるような、そういう言語に関わる素材を探すことに力を入れている。

自分の勤務校の生徒は、授業者の話をしっかりと聞いてくれる。それだけに必要な知識を伝えることは、授業者が工夫すればかなり圧縮できる。だからこそ、授業者が教えたいことをそのまま飲み込ませるのではなく、身につけてほしいことに思わず挑戦したくなるような素材を探して、「自分でできた」という気持ちを持ってほしいと願っている。

まあ、なかなかそこまでたどり着かないので、多くの場合は「面白いんだけど、浅いところで満足してしまう」とか「頑張れはとても勉強になるのだけど、面白くなるまでのハードルが高い」とか、そういう失敗を何度も繰り返しているのである。

そういう形で授業をしていると「教科書」の縛りがなかなか息苦しいと思うこともある。実際問題、高校の教科書の多くは小中学校ほど難易度に配慮した配列になっているわけではなく、アンソロジー的な側面が強くなっているように感じる。それだけにある程度学校として教科書の順序どおりに読んでいく縛りがあると、生徒の実態にあっていないなぁ…と思うことはある。話題によっては情報が古い、現代ではもっと先まで議論が進んでいる…というような場合もある。

だから、授業者が生徒に投げ込む素材は大切だし、そういう素材を見つける力をつけるために読書を粘り強くやるのだ。

ただ、一周回って、しっかりと教科書の素材を使い切ることも必要かなという気持ちも最近はある。なんというか、ゆっくりとした読む、書くという体験が教室には必要な感覚がある。

うまく行かない単元を諦める勇気

準備をしていても単元がうまく行かないことがある。そういう時は損切りで単元を切り上げたほうがいいのだが……そういう勇気がなかなか自分は持てない。

無理に解説の時間を増やして、自分の思った方に誘導してしまう。

そういう荒業の回数は減ってきたとは思うのだけど、年に何度かやってしまうのですよね。

本当は単元がうまく行かなければ、諦めて新しく立て直す方がいいのかもしれない。

でも、そこまでの技量が自分にはないのだ。

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