※写真は無関係。イメージ図です。
本日から自分も授業初め。
毎度のことながら、学期の最初の授業では生徒の集中力が持たないことや今までの授業の内容が頭から飛んでいる……ということが多いので、その学期の授業のオリエンと見通しを持つための活動をしている。今日もそんな感じでのんびりと授業はじめ。
本格的に作業する前の
自分がこれまでの授業で提示してきた目標(評価規準)の一覧表とちょっとした質問を並べたワークシートを使って振り返りと学習の見通しをもってもらうようにしています。
普段の授業から振り返りを書かせたり身につけたことを説明させたりしてはいるものの、時間をおいてしまうと結局何をやってきたのかということについてキレイさっぱり忘れて思い出の彼方へと追いやられてしまうことが多い。
だからこそ、学期の初めにこうやって思い出してもらうようにして、今学期にさらに身に着けた能力に上積みしてもらうことを考えてもらうようにします。
まあ、書いたところで何か効果があるかといわれると微妙な感じもするが、どちらかと言えば、自分の考えていることを言葉にするという作業のウォーミングアップやルーティーンのような面が強い。
授業についてのアンケートというか、ざっくばらんに生徒と授業について会話をしながら、今学期の授業をどうしていこうかーと、感覚を合わせているという感じです。
教えていることと伝わっていること
最近はあまり教えているという感じでもないのだけど、それでも「授業」はやっているわけだから、書いてもらうものの中には「どんなことが身についたか」に併せて「どんな風に授業を使いたいか」ということも書いてもらっている。
その記述を読むと、自分で読んだり書いたりすることは本当に苦戦して大変だという負担感を感じているようだけど、一方的に「サーっと」話されて、「サーっと」授業が終わっているようなのも自分のためにならないと感じているようだ。
面白いもので、こちらがあまり考えていないようなことを強く印象に持って覚えていたり手の込んだ単元よりも気楽に準備したもののほうを覚えていたり……まあ、そんなものだよね。ただ、面白いなぁと感じるのは、こちらが当たり前のように淡々と進めたことであっても、非常に印象深く思っていることもあるようだ。
そんな反応を見ても思うが、一斉に同じことを強要して覚えろと言っても、本当に勉強しているのかということをのんきに肯定していられない。
単純な話であるけど、どんな勉強をしてどんな力を身につけるかを自分で選ばないで「これがベターだろう」を押しつけられ続けていると、いい子ほどあれもこれもを押しつけられてパンクしているように見える。
自分で何をどうこなしていくかということをできるだけ任せていく形の授業の時間の使い方をしていきたいなぁとつくづく感じる。
教員が活動に参加するべきか
そして、意外に思うのが「もっと教員も一緒に議論に参加してほしい」という意見が多かったこと。
むろん、自分ができないことを生徒にやらせたり予定調和な議論しかさせなかったりという意味ではない。ただ、自分が対等な議論の相手として生徒の活動に入っていくのは難しい。いかんせん、こちらは授業準備として生徒の手に届かないような資料も使っているから、決して対等な参加にはならないよなぁと思う。
「議論に参加してほしい」という書き方が「適当にヒントをくれ」というニュアンスではなくて、本当に一緒にグループ活動してほしいというニュアンスなのに色々と思うところがある。
全体を見取りながらそのグループに参加するのはやっぱり難しいし、話してほしいと思う生徒がいる一方で放っておいて欲しいという生徒もいるからね。
参加者であって、参加者でない微妙な立ち位置を思う。