ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

『リヒテルズ直子氏×苫野一徳氏とイチから考える公教育』のまとめ1

予告していた通り、都内のリヒテルズ直子先生と苫野一徳先生が対談するイベントに参加してきました。

三時間ほどの短いイベントでしたが非常に内容の濃い話が聞けたと感じています。

全てを書き記すことは難しいのですが、個人的な興味関心に基づいて重要だと思った話をまとめてご報告します。

長くなるので10秒でわかる結論

本の語り口はきつかったけど決して現場の敵になるつもりはなく、頑張っている教員を繋げたり支えたりする仕組みをみんなで作っていきたいですね。

対談「公教育」とは何か リヒテルズ氏×苫野氏

今回、自分が心惹かれて参加を決めたメーンイベントがこの対談。なぜなら『公教育についてイチから考えよう』に対してとても感銘を受けたため、ぜひ、直接色々な話が聞けたらいいなぁと思っていたからだ。 

s-locarno.hatenablog.com

今回の対談のテーマは「『公教育をイチから考えよう』で最も伝えたかったこと」ということで話が進んでいきました。

最初はリヒテルズ直子先生の問題的から。

開口一番に「これまでの教育」が「国」という単位だけで考えておればよく「できる人間」を伸ばせばいいという発想が大なり小なりあったのだが、今の時代においてはそのような視野の狭い教育観では立ち行かなくなっていることを強調して述べていました。
現在のアメリカがポピュリズムの気配を見せていることを批判的に例として挙げつつ、今後の教育が社会に参加する市民を育てなければいけないと述べ、一方でそのような流れに教える側がなかなかついていくのが難しくなっている現状があるといいます。

リヒテルズ直子先生はオランダのイエナプランの専門家ですから、ヨーロッパにおいて「成熟した市民社会」という概念が強調されるようになっていることを述べつつ、どのように社会を動かすのかということについて、「浮揚面」を紹介。「浮揚面」とは異なる意見を持つ人間が集まったときに、それぞれの良さを認めつつより高次の解決の方向を見つけていくことだといいます。

そのような「浮揚面」を作るということに対する力を持つものが「公教育」であるからこそ、今、公教育の仕組みそのものを問うていく必要があると言います。

苫野先生から「ビジョンを示す」ということ

現場の方と関わったたり『公教育を…』の感想を聞いたりしたときに「そんなことを言われても困る」と言われることに対して、ご自身の立場の整理や共通理解のために以下のように述べていました。

第一に、自分たちが伝えようとしていることは、「先生方一人一人が変わらなければいけない」というような教員や現場そのものに責任を押しつけるようなつもりの提言ではない*1ということ。

ここで苫野先生は、自分たちの提言の意図としては「個人」や「個別の学校」に責任を押し付けるのではなく、社会や行政が教育をサポートしていく仕組みをそろそろ考えていかなければいけないのではないかということだと言います。

第二に教育はインテグラルアーキテクチャであり、一カ所を変えると様々なところが大きく複雑に変化してしまう。そのために、大きな「ビジョン」が必要となるため、その「ビジョン」を示すことが目的なのだといいます。

これまでも良い実践は教員の努力によって数多くあるのだから、それを将来などを見据えた大きな「ビジョン」に基づいてシステム化していく時期にあるのではないかといいます。

現在、「手法」が先行することに対して

苫野先生は現在のアクティブ・ラーニングをめぐる議論や専門家として現場から求められるコメントが「手法」に終始することに対する違和感を覚えていると言います。

現場が色々なことに追われていて、「すぐに使える」ということを求めざるを得ないことに理解を示しつつも明日使えるということばかりに流れていったときに「何のための」という問いがなくなってしまうことを指摘。結局、色々な方法のパッチワークでやっていくのでは限界があり、「何のために」という発想を掘り下げていくことが重要といいます。

もちろん、哲学者という立場があるからこそ、「何のために」という本質を問うことの重きをおいているのは間違いないでしょうが、手法が先行するとその手法が「どんな意味があったのか」ということに対する振り返りが甘くなっている事例は個人的には嫌になるほど見ているので、自分としても本質を掘り下げていこうという発想は必要だと感じている。

これに対してリヒテルズ直子先生がなかなか面白いコメントをしています。

リヒテルズ先生のご専門はイエナプランで、やはり日本では実践例は多くないため、色々な場面で「実際に何をやればいいのか」と聞かれることが多いそうだ。まさに「手法」が先行しているという状況であるのだけど、これまでとはことなる「ビジョン」を作るためには、手法から入るのも必要なのではないかと言います。

もちろん、手法を探そうとする方が多いのは気になるものの、手法をやってみることで、ぶつかる問題を通して本質的な問いに戻っていく部分があるのではないかと言います。

長期的に見れば、様々な手法を「継続」するようなシステムは必要。常に「どんな教育をしたいのか」を教員同士や学校同士で言葉にして表し続けることは重要ではないかといいます。というのも、日本の学校はヨーロッパに比べても驚くべきほど「学校共同体」という感覚がない。一つ一つの教育が個人で行われ、個人が受けていることに問題があるのではないかとご指摘されていました。

そのような「手法が先行する」ことの考え方に対して苫野先生は、哲学は原理を言葉にしているからこそ言葉が独り歩きしていかないかを心配するものの、言葉にするからこそ他人に伝え、理解しあうことができ、何か困ったことがあった時に「ビジョン」として戻ってこられる良さがあるとコメントしていました。

自分に出来ないことを子どもに求めていないか

リヒテルズ先生は苫野先生が<相互承認>という言葉で説明する概念にあたる言葉として「寛容」(Tolerance)という言葉を使いたいといいます。

感度を高めるためには批判をおそれてはいけないが、やはりお互いに批判したり批判をされたりするということは苦しい部分はある。実際、ヨーロッパの人たちであっても楽なものではないという。

そんな感性であるのに、つい大人たちは子どもに対して、いきなり大人のように振る舞うことを求めることをしがちであるが、「あなたはそのままでよい」という下支えをすることが自由や「浮揚面」に対する感度を磨くということにつながるのではないかと指摘されています。

大人の側の自省として、自分ができないことを子どもに押しつけてはいけないのではないかということは問われるべきではないかと言います。そして、日頃から信頼関係を高めるような工夫が積み重ねられるべきだと主張されていました。

そして、一言、「日本は優しいが本音を言えない社会」とチクリと刺す言葉も(笑)

それに対して苫野先生は<相互承認>が協調性と単純な言い換えではないのだということをお話ししていました。

「サポート」の意味合いについて

リヒテルズ先生はオランダの教育の良さとして、オランダは教員にやってもらいたいことは国がサポートしなければいけないという前提が徹底されているということを述べられていました。そのうえで、教員が何をしたいかということを大切にして、それぞれの教員が教育のために自由に学びたいことをサポートしているそうです。

だからこそ、翻って教育の責任が個人個人に任されていたり、教育は受益者負担だと思われていたりする状況に対して、国が介入していく必要があるのではないかと言います。

「人間が教えていることの意味」を活かすためには、教員一人一人が異なる価値観を持っていることを活かせるような環境がなければ意味がないと強く主張され、価値観の異なる一人一人がお互いにリフレクションすることで、個人ではなく「学校」という共同体の力を持って生徒を育てなければならないのではないかと言っていました。
苫野先生はこれを受けて日本の教育は、現状においても制度的には現場の自由・自立が委ねられているものの現場レベルになると教員に余裕も自由もなくなっている様子があると指摘されました。

子どもたちに主体的・能動的と求めながら教員に主体性がない(笑)また、教員養成のカリキュラムもガチガチに固められていて余裕がなく、主体性の入り込む余地がないのも問題ではないかといいます。

そろそろ、よりよい教育をしようとして頑張る教員たちがつながることができるサポートが作られ、共感の輪が広がっていくようなフェーズにあるのではないかと述べられていました。

個人的な感想

話としては『公教育を…』の内容に沿って行われていましたので、読んだことがある人にとってはとても分かりやすかったです。

『公教育を…』では比較的過激な語り口で書かれていたので、現場の教員から反感に似た感想を聞くことが多かったのですが、やはり直接話を聞くと、決して現場を批判しようというつもりでお二人が書かれているわけでもないし、現場の良さを認めていないというわけでもないということが伝わってきます。

特に印象的であったのが、日本の強みとして「教員の熱心さ」ということを強調されていたことだ。勉強熱心な教員が多いことが日本の教育を間違いなく下支えしていることに対して非常に敬意を持たれていました。

だからこそ、孤立してしまっている先生がいることを強く受け止め、仕組みやサポートができることを考えていると言っていました。

一方で、「子ども一人一人に学びを保障する」ということを何度も強く主張されるだけあって、そのような原則が通らないような方法論や態度についてはかなり辛辣な指摘もありました。

しかしながら、冷静に考えればそれは教育に対して「誠実」であろうとすれば当たり前の指摘だと感じます。

今回のこのイベントでとにかく強調されていたことが「教員同士がつながる」ということです。新しい教育を立ち上げていくためには、まずは学校で、そして学校を超えて地域で、そして地域を超えて色々な人とつながっていくことで、より教育に対する「ビジョン」が鍛えられていくのだと思いました。

グラフィックレコーディングの紹介

今回のイベントは「グラフィックレコーディング」といって、対談の内容を絵で記録されていました。なお、この絵はネットで拡散してよいということなので、紹介します(笑)

次回予告?

実はこの報告はまだこのイベントの第一部です。

長くなってしまったので情報共有やトークセッションの話はまた別稿で…。乞うご期待?

*1:哲学者という立場であり、教育を原理原則から丁寧に論じようとしている苫野先生の主張を追っていけば、そのような大所高所からの物言いではないことは理解できるはずだよなぁとは思うものの、どうしても「個別具体的な対象」を想定しているように現場に聞こえてしまうのは、教員という立場にいるから分からないでもない。もちろん、そう聞こえるのは聞く側の余裕のなさであるとは思う。

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