ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

国立大学附属の学校と何が違うのだろう?

University of Cambridge

昨日は埼玉大学教育学部附属中学校の公開研究会に行ってきました(※写真は埼玉大学のイメージです。あくまでイメージです。イメージですってば)。

そこで行われている授業を見てつくづく思うのが、こういう附属学校と自分が勤めているようなしがない私立の学校とは何が違うんだろうということ。

生徒の活動の様子や仕上げているもののクオリティを見ると、自分のことが情けなくなってくるけれども、それだけで終わりにしていても進歩がないのでもう少し考えてみよう。

附属の生徒だからできる?附属の生徒は優秀だから?

よく普通の教員が二言目にいうこととしては「附属の生徒はもともと優秀だからできて当たり前」ということだ。

確かに公立の学校に比べれば「選抜試験」があるので、確かにある程度の水準の学力の生徒は入学してくるだろう。入試問題を解けるような学力と生活習慣や活動の質などには経験則的にはある程度の相関はあるだろう。入口の学力が高いのだから、高いパフォーマンスができて当たり前……というのは一見すると筋が通っているようにも見えないことはない。

しかし、その意見はずいぶん乱暴な話だようなぁと思う。

第一に、入試の学力ということであれば、私立の学校だってかなり高度な知識まで選抜試験で問うて、選抜していることを考えれば、附属の生徒だけが持っている特別な属性ではない。でも、同偏差値帯の私立学校が附属の生徒と同じようなパフォーマンスはできない。というか、うちは出来ていないぞ。

第二に、たとえ入学時の学力水準が高かったとしても、その生徒の持っている能力に満足して、学習指導によって生徒の能力を伸ばさないでよいということはない。入学時の能力が高いのであれば、それ以上に高い能力を目指して指導が行われているはずだ。

第三に、年に数度の大規模な公開研究会に向けて、教員が掛けている手間を無視してはいけないだろうということだ。自分たちが普段関わっている教育現場は確かに毎日、それぞれの現場でそれぞれの事情を抱えて忙しく過ごしていることは間違いないし、ベターな指導を目指して工夫を繰り返しているに違いない。しかし、多方面から多くの見学者を集め、徹底的な批判と検討にさらされる研究会を高い頻度で繰り返している教員の力量や一つの単元に掛ける熱量の大きさを「子どもが優秀だから」という言葉で無視してはいけないだろうと思う。

どうしてこんなに差がつくのだろう

自分の指導が至らないから……と卑下してもいいんだけど、それだけだと自分の中に閉じた反省でしかないので、とりあえず一生懸命ベターは尽くしているという前提で考えてみることにする。

わずか一か月や二か月の間にここまで大きく活動のクオリティに水をあけられるのだろうと強く感じる。

ちょっとした発表の時にフロアの方を見て、原稿に頼りすぎないで話せたり、質疑応答でどんどん発表に関連した質問ができたりしている様子を見ると、自分が行わせていた発表が指導不足だったと思わざるを得ない。

時間数や年間のカリキュラムの詳細が分からないので直接比較はできないけど、国語の授業数自体に大きな違いはあるとは思わない。しかし、わずか一か月や二か月で差が出てきてしまう。

この差は何なのだろう?

思い当たることとしては「どれだけ一日に発表や表現活動に取り組んでいるか」ということの差ではないかということだ。

附属の授業を見ていると、どの教科の授業もかなり表現活動を取り入れており、とにかく主体的に考えるということが、一日を通して何度も行われている。

それに対して「言語活動の充実」とは言っても、自分の勤務校ではそうそう発表などを国語以外でやっている様子は見ないことから考えても、その差は大きいかなぁとは思う。

別に他教科がやらないから悪いといいたいのでは、ない(断言はしかねる)。

単純に学校の方針としてそういうパフォーマンスができることに価値を置くかどうかの差でしかない。世の中の流れを考えれば主体的な学びや対話的な学びにつながるような学習を無視して、受験のための詰め込みばかりやっているのもどうかと思うけど、そういう方針なら仕方ない。

まさにカリキュラム・マネジメントとでもいうべき問題だろう。どんな能力を身に付けさせたいのかということについて、学校全体で貫いているものがあれば、一日の間に何度も反復して能力を伸ばせるのかなぁという感じもある。まあ、となりの芝生というものでしょう。

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