いい感じに実習生が追い詰められてきました。別に残ってやれなんて一言もいっていないからね!基本的に「やりたい」といったことには「やってみればいいんじゃない?」とオールオッケーですもの、わたくし。
結果的に予定調和に上手くいかないから、必死にリカバリーしようとしているだけです(笑)。
こうして実習生が七転八倒する様子をみていると、自分と何が違うんだろうと思うのです。
生徒のことをよく知っている
授業づくりにおいて何よりも大きなことは、「生徒のことをどれだけ知っているか」ということだ。生徒のことをよく知っているからこそ、どの程度、遊びを持たせて大丈夫かという余裕もあれば、ここまでは絶対にたどり着かせたいという意志をもって授業に臨むことができる。
何よりも、精神的には「まあ、受け入れてくれるよね」という安心感というか甘えがある。お互いにね。
だからこそ、実習生には「授業のために」生徒の様子を観察しに行くことを指示する。基本的に生徒がいる間は授業研究してはいけないと、かなり厳しいことをいうのだけど、それは結局、生徒の生活の様子を見ていないと授業でどこまで求めることができるのか、何を求めなければいけないのかが見えてこない。
まあ、あとは生徒に姿を何度も見せれば、生徒の方が歩み寄ってくれるし(笑)
根性論に聞こえるかもしれないけど、自分が研究授業するクラスについては、朝から晩まで一緒に行動して、生徒の様子を観察しないとダメだと思う。
細々とした授業技術
地味ながら授業の進展に影響を与えるのが、細々とした授業技術の有無だ。例えば、発問の仕方や指示の確実な伝達の仕方については技術がある程度いる。時間の見積もりや達成度の予想も経験がものをいう部分ではある。
一斉講義型の授業でないとしても、生徒に何かを伝えようと思った時には、やはり技術が必要だ。
個人的にはあまりそこはグチグチといっても実習として意味がないだろうという気持ちがあるので、あまり指摘はしない。「どうすればよかった?」という本人の意思を確認して、試行錯誤してもらうことを期待しています。
自分がこうして偉そうな態度で授業で来ているのは塾講師時代の小手先テクニックの研究のおかげという点は大きい。最近は、めっきりやる気がないのだけど。
学習材の吟味の程度
どこまで学習材について深く読み、参考文献を準備できて、理解を深めることができるかということについては、経験値分の差はある。
ただ、個人的には、この学習材の吟味ということについては、実習生と自分の差があまりあってほしいとは思わない。実習前に十分に時間があったのであれば、それだけ素材を追究する時間があるからだ。日々の生活に追われて片手間でやる教員よりも、授業だけに集中できるはずの実習生が片手間で終わらせては困る。
もともと持っている知識の量に差があるのは仕方ないが、その分、授業に使える時間は多くあるのだから、指導教員以上に資料を集めて、理解を深めなければいけない。
素材の読み込みが甘く、きちんと読めていない場合は、やっぱりそこは助け舟出す気にはならない。生徒のほうがよく読めるので、そこで一度、生徒はこの程度しか読めないという尊大な思い込みは、ショック療法がベターかなぁという個人的趣味。
何よりも信頼です
時に、実習生のことばが辛辣に、嫌な響きを持つことがある。
これは何だろう。自分の普段のことばがよくないのかもしれない。
こういう言葉の積み重ねが信頼を失わせるのではないかと思う。
生徒のことをどう思っているか、ことばの節々に現れるということは、他人の授業を見ているとよく分かる。
信頼するのと、されるのと、どちらが先だと思うでしょう?