この土日は実践報告を書いていました。授業風にいえば、これまでのふり返りとなるのでしょうか(笑)。
せっかくの連休があっという間に消えていったことを考えると、生徒に対して考査ごとにふり返りを求めるのは可哀想なのかもと弱気になるくらいには苦労しました(笑)。
伝えようとすると雑ではすまない
ちゃんと誰かに伝えようとすると、このブログのように「質よりも量」だとか言ってられなくなるんだなぁとあらためて思います。
そして、普段、職場で適当な報告書を出せと言われたときに、テキトーに書きたいことを書き散らして読めないほうが悪い(笑)と開き直っているのと同じにはいかないのだとつくづく感じました。
つまりは、普段がどれだけ雑な思考で生活しているのかということを思い知らされたということです。人と自分の間にはなかなか埋めることが難しいような「違い」が当たり前に存在しているわけだけど、その違いに対して鈍感に過ごしている。鈍感だからこそ、言葉を尽くすことを雑にして、しっかりと伝えようという意思が弱くなっているのだと思う。
逆に言えば、そこまでして伝えようと思うことが少ない生活をしているのかもしれない。……あまり健康的ではないですね。
伝えようとすると自分を振り返る
あらためて丁寧にものを伝えようとすると、自分が何を伝えたかったのかということをじっくりとふり返ることになる。自分の場合は特に文章を書く場合は、書き出す前にどんなことを書きたいのかということの全体像がぼんやりと組みたたないとあまり筆が進まないタイプであるので、いったい自分が何を知っているのか、いったい自分が何を大切にしてきたのか、いったい自分が言いたいことが何なのかということを考えることになる。
毎日、わりと手帳に記録を取ったりEvernoteにはコメントを残したりしながら生活しているので、人よりは割と記憶しているつもりなんだけど、こうして何かをきちんと伝えようとすると、全然、その時の記憶や資料が散逸していて使い物にならない。
とても残念に思うし、振り返りの仕方を変えるべきなのかとも思うが、それでもやっぱりやってきたことって簡単に消えていくのだろうと思う。
そう考えるとこうして毎日ブログを書いておくことは、感情やその時のアイデアの保存という意味では強力なのかもしれないね。blogtrottrがよいですよ、きれいにEvernoteに保存できる。
自分の思考は雑多でまとまりがない
そして何よりも他人に伝えようとして書き出してみると、自分の思考が非常に雑多でまとまりがないことに気づかされる。
つまり、書いても書いても全然本質を突くことができないし、何が言いたいのかがよく分からなくなっている。たとえば、一つの活動を説明するのに、色々な本で説明されていることや論文を引用して説明したくなる。結局、自分に自信がなくて他人に寄りかかって何かを言いたいということや、自分の中でどうしてもこれをやりたいのだというような肚が決まっていないのかもしれない。
自分で何を語ればいいか、ちゃんと説明できていないのかもしれない。
一体、自分は授業で何をしたいのか、学校で何を成し遂げたいのか。