久々に時間を取れて積読を消化。
GW前に流して読んで、さて、いよいよ次の単元を目の前にして再読。
サブタイトルにある「情ではなく理性で政治を理解するために」というスローガンは、教育の担っている役割の大きさからすると、何を果たさなければいけないのだろうと考えさせられる。
平成という時代の総括として
本書は「政治がわかりにくい」理由を様々な角度から分析して述べているが、そのスタートが「平成」という時代の総括なのです。
政治が時代に影響を受ける以上、一体、我々の生きている時代とは何なのか/何だったのかという議論は必要なはずです。
考えてみると、たまたま今年は「平成」最後の年なので、自分たちの生きている時代について比較的意識が向きやすい。とはいえ、そのような節目の年であっても、決して日常的に自分たちの生きてきた時代について、考えてみることは多くはありません。
だからこそ、スタート地点として「平成」とはどんな時代だったのかを見直すことに意味があると感じます。
本書の結論は「失敗の時代」だと一刀両断しています。「日本の豊かさ」がピークアウトしていき、昭和型の楽天的な成長と安泰のモデルが通用しなくなっている時代に、我々の生活が大きく変わろうとしているということを明快に解説してくれます。
そのような時代にいたるまで、日本の政治の変遷が描き出されますが、その姿はまさに混迷そのものなのです。「保守/リベラル」のような両極のような概念さえも、時々によって微妙にそれを主張する論者が変わり、意味が変質して使われ、自明な概念ではないのだと暴かれるのです。
これだけ混迷としているのにもかかわらず、恐ろしいことに、何を共通理解にすればよいのかということすら、よく分からないのが、現代社会なのだと指摘されているのです。
政治の認識を形成する力の弱さ
社会の中で政治の認識を形成することを「政治的社会化」というそうだ。
日本において、その役割を担っているのが「メディア」と「教育」だという。しかし、残念ながら、「メディア」も「教育」のどちらも十分に機能できていないことで、政治がわかりにくものになると本書では説明されます。
「メディア」は、かつてほどの影響力を「新聞」や「テレビ」などのマス・メディアが失う一方で、インターネットの影響力が日増しに大きくなっています。面白い指摘として、「政治とメディアを比較したときに政治のほうがいち早く進化している」(P.123)ということが挙げられます。各政党が見聞するよりもよほど戦略的にメディアというものを使いこなしていることを解説しています。そして、そのような状況だからこそ、個人のメディリテラシーの実践が相当に困難な状況にあるという指摘がなされます。
一方で「メディア」と表裏一体に政治と市民を繋げる役割を担う「教育」の方は、不偏不党という大原則のために、なかなか実感を伴わないものになってしまっているということなど、理論は教えるものの現実政治の理解に対しては殆ど役に立っていないのが現状であるといえます。教育基本法をはじめとして、教育が政治を理解するために供給している知識は少なくないものの、現実政治との関係がどうあるかは難しいところです。
本書では「メディア」を「風邪薬」、「教育」を「漢方薬」と喩えています。即効性のある「メディア」と時間をかけてじっくりと影響を与えていく「教育」を上手く喩えたものだと感じます。
教員としては「漢方薬」として授業を考えていかなければいけないわけですが、さて、そのために必要な見取りができるのかは、難しいところですね。
だからこそ「理性」のはたらき
このような分かりにくい状況にあるからこそ、短絡的に「分かりやすいもの」に我々は飛びついてしまいがちである。
本書で何度か批判されているが、「会ってみたらあの政治家はいい人だった」みたいな話で、政治を分かった気になってしまってよいのだろうか。相手は生活を懸けてイメージづくりをしているようなものである。自分の根拠の乏しい直感で、どうしてその人を信じてよいと結論付けられるのだろうか。
逆に、分かりにくいからと言って政治をチェックすることを手放すことも、もちろん望ましい結論だとは言えないだろう。
だからこそ、本書の結論は、「情」ではなく、限界があることを理解しながらも「理性」を働かせて、政治を見ることの必要を説くのです。その裏には、「情」に訴えかけて、「理」を働かせることを遠ざけている「政治」側の思惑への批判を感じ取ることができます。
さて、「理」を働かせるとはどういうことなのでしょう。そして、学校で「理」を働かせる機会を保障すべきだと思うのですが、どうすることが必要なのでしょう。
教育基本法
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。