今年、話題になった「こんな夜更けにバナナかよ」の著者がちくまプリマ―で書いた一冊が去年の年末に発売になっていましたが、ずっと積読になっていました。
なぜ人と人は支え合うのか ──「障害」から考える (ちくまプリマー新書)
- 作者: 渡辺一史
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2019/01/18
- メディア: Kindle版
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なんでもっと早く読まなかったのだろうと後悔しました。
本の帯には「ほんとうに障害者はいなくなった方がいいですか?」という問いが投げかけられていますが、まさにその問いに対して詭弁や綺麗ごとではなく答えた一冊になっています。
無意識の後ろめたさ
自分自身の障害者と関わった経験は教員免許を取るための介護実習くらいである。身内に障害者手帳を持っている者もいるものの、軽度ということもあり介護も不要であるので、自分にとって障害者との距離感や接し方は暗闇なのである。
そのような「とまどい」を十分に本書は分かっていて、最初に「はじめに」で遠慮せずに突き付ける。
なぜ健常者は障害者に会うと、つい、とまどいや緊張を感じてしまうのでしょうか。
もちろん人によって、あるいは、経験の多い少ないによっても違いますが、障碍者に差別的な感情をあらわにするような人は別にして、今日では、逆に多くの人が、「差別はよくない」とか、「障害者は不幸ではない」とか、あるいは、「障害者も健常者も同じ人間だ」などという理念にしばられて緊張してしまうからではないでしょうか。
また、誰しもやさしい自分を演じたいところがありますから、いらぬ「思いやり」や「おせっかい」を過剰に発揮してしまって気まずい思いをしたり、逆に、不用意な発言をして、「障害者差別だ!」などと思われたりするのも面倒ですから、そんなあれやこれやを考えると、関わらないに越したことはない、とつい考えがちでもあります。(PP.18-19)
言いにくいことをはっきりと指摘されたような厳しさを感じます。いや、厳しいというよりも、実際の姿を過剰にも過小にも評価することなく理解しているからこそ、淡々と現状のありのままを指摘しているのにすぎないのかもしれない。
本書は一冊を通じて、このような冷静さが随所に現れる。それが冷静に淡々と述べられるほどに、普段から問題に対して疎い自分は厳しいものを感じるのである。
やまゆり園障害者殺傷事件から
この本を貫く大きなテーマの一つが「やまゆり園」の事件である。
植松被告の「障害者なんていなくなればいい」という主張がセンセーショナルに世論を刺激したことは記憶に新しい。
しかしながら、この「素朴な疑問」に対して、世論は熱しやすく冷めやすく、もう2019年の今となっては風化して、忘れかけているようにすら感じられる。当然、素朴てシンプルで逃げ道がないからこそ、こういう問いを考えるのは苦しい。どうしても不用意なことを述べると、きれいごとを並べたようになったようで空々しいのである。
そんな問いに対して、本書はひたすら丁寧に、一つ一つの現実を述べながら、答えを紡ぎ出している。
その答えをここでは書かないが、この「素朴な問い」に対して向き合うためのスタートとして挙げていることをここに引用して紹介しよう。
……「障害者に生きてる価値ってあるの?」などと口にする植松被告のような人に対しては、まず最初にこう聞いてみるべきです。
「では、あなた自身は、自分に生きている価値があると、誰の前でも胸を張ってんですか? 価値があるとしたら、どうしてそういえるんですか?」と。(P.46)
この問いから始まって、「人間が生きるとは」「他者がいるとは」「福祉とは何か」と次々に我々の生きている社会に張り巡らされている価値観の根底を問うていくことに繋がっていく。
声をあげるということ
本書では障害者の方がどのように生きているのかという事例も丁寧に、変な煽りをすることもなく、淡々と書かれている。
本書で書かれている事例に共通して言えることは「障害の有無ではなく、自分の生き方を自分で決める」ということと「自分の生きたい生き方を守るために声を上げる」ということの二つである。
行政は隙あらば金を出すことを渋る、健常者は誤解を募らせていく……。声を上げなければ、蔑ろにされてしまうからこそ、声を上げること、上げ続けることの必要性を述べている。
それは決して我儘な押し付けではなく、本書の最終章で述べられるような、生きることの本質として人と人が支え合うことの本質としての「声」なのである。
ぜひ教室でも読みたい一冊である。障害の有無の問題ではなく、きれいごとではない生きるということの視点を増やすための一冊として。